2人が「藤子不二雄」として活躍したのは「奇跡的に思えてなりません」
「私達"藤子不二雄"を論じた唯一の本」
の題名でAさんは巻末に寄稿し、米沢さんを悼んでいる。
1987年のコンビ解消後、AさんとFさんは別々のマンガ家としてメディアで語られ、「藤子不二雄」として論じられることはほとんどなかったと編集者の伊藤さんは話す。
「もともと藤子マンガはその人気に比べて、評論される機会が少なかったのですが、コンビ解消後、『2人で1人の藤子不二雄』として語られることはほぼなくなりました。ところが米沢さんは、Fさんの没後間もない頃に出た『コミック学のみかた。』(アエラムック、1997年)の中で、『藤子不二雄の磁場』と題して正面から取り上げられた。6ページの作家論でしたが、ものすごく濃密で面白かったので、1冊の評論集として書き下ろしをお願いしました。近年は1980年代の藤子ブームの洗礼を受けた世代を中心としてF論やA論が書かれるようになりましたが、『藤子不二雄』として論じることは当時以上に様々な点で難しくなっているかもしれません」
コンビでマンガを描き始めた1950年代から個々にヒット作を生み出し、コンビ解消後の90年代に至るまでの膨大な業績を記録し論じた本書の中で、2人の担当作品や作風の違い・推移が詳細に論じられている。「ドラえもん」など子ども向けマンガやSFを得意としたFさんと「魔太郎がくる!!」「笑ゥせぇるすまん」等ダーク路線を開花させたAさんだが、
「初の週刊連載『海の王子』や初の大ヒット『オバケのQ太郎』のように、転機になるタイミングで合作を世に出していました。浮き沈みの激しいマンガ界において、F先生・A先生のお2人は交互にヒット作を描き続けることで、2人で1人のマンガ家『藤子不二雄』はつねに第一線で活躍してきました。コンビではなくどちらか1人だけの存在だったらまったく異なるまんが道を歩んだことだろうと思います」(伊藤さん)
という。伊藤さんや米沢さんはコンビ解消前の「藤子不二雄」だった時代を知っており、
「コンビ解消は、10代だったわたしにとってまさに大事件でした。今となっては2人の天才が『藤子不二雄』という1つのユニットとして活躍していたことのほうが奇跡的に思えてなりません。80年代当時の『藤子不二雄ランド』のCMを見ると、藤子マンガのオールスターがF・Aの区分けなしに一堂につどったアニメーションは、めまいがするほど豪華です。米沢さんは、FとAはマンガという夢の磁場に育まれ、その場を共有したマンガ家、すなわち『マンガが、藤子不二雄を生み出した』と語っていますが、コミックマーケットやマンガ評論など、マンガと共に生きてきた米沢さんもまた、そこにご自身を重ねていたのかもしれません」
と伊藤さんは話す。
米沢さんは「藤子不二雄論」以外にも手塚治虫さんや水木しげるさんなどマンガ家の評伝を構想していたが、2006年に死去。結果的に特定のマンガ家をテーマにした評論で生前に完結できたものはこの「藤子不二雄論」だけになったが、生前の本人も認める評伝として結実した。Fさん・Aさんの功績だけでなく、米沢さんのマンガ研究者としての熱量もうかがえるものになっている。
(J-CASTニュース編集部 大宮 高史)