「200年に1人の天才ボクサー」亀田昭雄さん死去 元所属ジム会長が明かす「幻のビッグマッチ」

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   プロボクシングの元日本スーパーライト級、ウエルター級王者で世界王座に2度挑戦した経験を持つ亀田昭雄さんが死去していたことが、関係者への取材で2022年4月28日に分かった。享年65。

  • 亀田昭雄さん
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無敗のまま日本王座獲得

   亀田さんは180センチの長身を誇るサウスポーで、アマチュア時代には全日本選手権で優勝するなど早くからプロのジムに注目されていた。大学中退後にミカドジムに入門し、その後、協栄ジムに移籍した。

   当時の協栄ジム会長の金平正紀氏(故人)は、亀田さんを「具志堅用高を超える逸材で200年に1人の天才」と称して売り出した。亀田さんは「200年に1人の天才」の謳い文句に違わず、サウスポースタイルから繰り出す左ストレート、右フックでKOの山を築き、プロ7戦目で無敗(全KO)のまま日本ウエルター級王座を獲得した。

   その後、日本王座を8度防衛して王座を返上。満を持して82年7月に世界王座に挑戦した。

   世界初挑戦の舞台は米シンシナティ。当時、史上最強と言われたWBA世界ウエルター級王者アーロン・プライアー(米国)に挑み、1回にダウンを奪うも2回以降プライアーの猛攻にあい6回TKO負け。天才ボクサーのプロ初黒星だった。

   敗戦から4か月後の82年11月に1階級下の日本スーパーライト級王座を獲得。同王座は5度防衛している。84年5月に東洋太平洋スーパーライト級王座に挑戦し4回TKO負け。10月のリターンマッチでは7回KO負けを喫した。

「ボクシングというのは特殊な能力がある人間がやるもの」

   その後、バトルホーク風間ジムに移籍し87年7月にIBF世界スーパーライト級王座(※当時IBFは日本ボクシングコミッション未承認)に挑み6回TKO負け。この試合を最後にグローブを置いた。約10年間のプロ戦績は27勝(21KO)4敗。

   「200年に1人の天才」はどのようなボクサーだったのだろうか。金平正紀氏を父に持ち、99年に協栄ジムの会長職を受け継いだ金平桂一郎氏(56)は、J-CASTニュース編集部の取材に「亀田さんは正統派スタイルの本当の天才でした」と語り、亀田さんとの思い出を振り返った。

   金平会長が亀田さんとの交流の中で最も印象に残っているのは、ジムが東京・代々木にあった時代のことだという。

   当時ジムの2階が選手の合宿所で亀田さんは合宿生活を送っていた。中学生だった金平会長はプロボクサーを目指し日々練習に打ち込んでいた。そんなある日、亀田さんの部屋に呼び出された。金平少年は技術的なアドバイスを期待していたが、亀田さんの口から出た言葉は予期せぬものだったという。

「けいちゃん、ボクシングというものは見るものだよ。けいちゃんの練習を見てるけどチャンピオンにはなれないよ。何戦かは勝てるかもしれないけどチャンピオンにはなれないからやめた方がいいぞ。ボクシングというのは特殊な能力がある人間がやるものであって基本的には見るものだから」

   亀田さんの言葉によって金平少年はボクサーの道を諦めたわけだが、優しく諭すように語りかける亀田さんの言葉は今でも心の奥底に残っているという。

幻に終わった赤井英和との対戦

   また、金平会長は亀田さんの「幻のカード」にまつわるエピソードを明かした。

   金平会長によると当時、亀田さんと赤井英和氏の対戦話があったという。赤井氏は現在俳優として芸能界で活躍しているが、現役時代は「浪速のロッキー」としてKOを量産し、関西地区では世界王者をしのぐ人気を誇った。先代協栄ジム会長と赤井氏が所属するジムの会長が親しい間柄にあったため対戦話が浮上したという。

「私が聞いていたところでは、対戦が実現する手前までいったそうです。試合が成立しなかった大きな理由はテレビ局の問題だったと思います。お互いに別々の局がそれぞれ試合を放送していましたので、うまく調整することが出来なかったようです。亀田さんは『200年に1人の天才』、赤井さんは『浪速のロッキー』ですから対戦が実現していたらビッグマッチになっていたでしょう」

   亀田さんは現役引退後、長い間ボクシング界から離れていたが、数年前に協栄ジムを訪れ数回にわたり選手を指導したこともあったという。

   金平会長は「亀田さんは天才肌で練習嫌いと言われていましたが、ボクシングに関しては非常にクレバーで論理的な思考を持っていました。亀田さんの天才的なボクシングの技術や理論をもっと多くの後輩達に伝えてほしかったというのが今の気持ちです。亀田さんのご冥福をお祈りいたします」と語った。

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