なぜ平氏の武家政権は挫折した?
保元の乱(1159)頃から承久の乱(1221)に至るこの時代は、武家政権が確立する日本史上の転換期でもあった。歴史学者で東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんがこの時代の特徴を解説する。
平安後期の院政期から鎌倉幕府成立までの時代は、武家が台頭し江戸幕府まで続く武家政治が始まった日本史の転換期にあたる。「中央の天皇や公家でなく、地方で武士が庶民を束ねて政権を確立させて中世が始まります。武士や地方の民衆の活躍が歴史上に現れてくる時代です」(本郷さん)
はじめに台頭したのは平氏だが、「平家物語」で描かれるように1185(寿永4)年の壇ノ浦の戦いで滅亡してしまった。平氏政権崩壊の理由を本郷さんはこう語る。
「武家政権確立の過程には3つの選択肢があったと私は考えます。まず平氏は貴族として朝廷の中で出世し、権力を得ていく道を選びました。しかしこれは皇室や公家との軋轢が避けられず、1179年には平清盛が後白河法皇を幽閉して院政を停止するに至ります。ここが平氏政権の完成形と考えますが、反発は激しく翌年には以仁王の挙兵をきっかけに壇ノ浦に至る治承・寿永の乱が始まります。源氏の一門ではない地方の在庁官人までもが平氏に背くに至り、源氏と平氏の争乱として一面的に解釈できるものではありません」
1192年に正式に源頼朝が征夷大将軍に任ぜられ、その在所から「鎌倉殿」となる。頼朝が平氏と違ったのは、京都から距離を置いたことだと本郷さんは論じる。
「頼朝は平氏の失敗に学んで、朝廷から離れたところで地盤を作るべく鎌倉に拠りました。京都から離れた鎌倉なら公家たちも『田舎で身分の低い連中が何かやってる』程度の感覚で反発が少ないという訳です。ただし自身を征夷大将軍に任命させたり、守護・地頭の設置を朝廷に認めさせたように朝廷の権威も重視しながら力をたくわえていきました。朝廷も重視するけれど距離を置く、というのが平氏とは違う第2の選択肢です」
ところが鎌倉幕府は御家人の抗争が絶えず、源氏に加わった上総広常・梶原景時・和田義盛ら有力御家人の粛清も相次ぐ。鎌倉武士らが考える「第3の選択肢」と頼朝の政策との軋轢を本郷さんは見出す。
「関東地縁の武士団の中には朝廷も無視して、武士の統治能力を誇示して中央から自立していこうという考え方もあり、頼朝に粛清(1184年)された上総広常もその1人です。頼朝時代から彼に反発する御家人勢力がいて、大きな流れでいうと北条氏が彼らをまとめあげて、朝廷から自立した鎌倉幕府を実現させていきます。承久の乱を幕府側で指導した北条義時はその代表的な功労者に数えられるでしょう」