「二刀流という意識はないんですよ」。小須田潤太(31)はあっけらかんと言い切る。2022年3月4日に開幕する北京パラリンピック。スノーボード日本代表として出場する小須田は、2021年夏の東京パラリンピック陸上日本代表でもある。
21歳の時に右足大腿部を切断するまで「目標がなかった」という小須田は、今や世界上位を狙うアスリートになった。「体が限界を迎えるまで、夏冬両方の競技を継続する」。その原動力となっているのは、背中を追い続けるパイオニアの存在と、「楽しい」という純粋な気持ち。いかにして、本気になれるものを見つけたのか。なぜ「二刀流」を続けるのか。東京からわずか半年で迎える2度目のパラリンピックを前に、北京への思い、激動の半生を聞いた。
イベントで出会った山本篤
パラリンピックのスノーボードは2種目ある。バンクという傾斜があるコーナーを設けたコースを滑走する「バンクドスラローム」と、バンクやカーブ、ジャンプ台などがあるコースでレースする「スノーボードクロス」。小須田は両種目に、SBLL-1(下肢障害・重度)のクラスで出場する。
2021年12月のWPSBワールドカップ・スノーボードクロスでは、第1戦3位、第2戦5位と上々の成績。北京パラリンピックは、同種目で表彰台を目指す。ただ、直前の22年1月に開かれた世界選手権バンクドスラロームでは9位に沈んでいた。
「世界選手権では『絶対にメダルを取ってやる』という気持ちが強すぎて失敗しました。北京パラリンピックでは、いかに平常心で自分の力を最大限に発揮できるかがカギになる。白熱はするけど熱くなり過ぎず、冷静さを保ちながら滑れるか。そこにイメージを置きたい」
小須田がアスリートの道に進んだのは、足を切断した後。ドライバーとして勤務していた引っ越し業者で、運転中に居眠り運転をしてしまい、単独事故を起こした。車中で意識が戻ると、右足がない。骨がむき出しになっていた。2012年3月のことだった。
「息ができなくなるような苦しさはありました。痛みは通り越しちゃったのか、感じなかったです」。そんな極限状況で真っ先に思ったのは「積んでいる荷物、どうしよう」だった。足がなくなったことそのものについては「何も考えていなかった」という。
「完全に自分1人のミスで起こした事故でした。病気とか、自分のミスではない理由で足を切断していたらまた違ったかもしれません。それに、当時は特に目標もなく、ただただ日々の生活を送っていただけでした。もし大きな目標を持っていたら、精神的ダメージはあったかもしれません。そんな状況だったので、足がなくなって落ち込むようなこともなかったです」
病院で右足の太ももから下を切断。義足を制作してリハビリをこなすと、無事歩けるようになった。その後2015年夏、義肢装具士や理学療法士の勧めで、義足で初めて走る人を対象にした「ランニングクリニック」というイベントに参加した。「何となく行ってみました」というこのイベントが、人生を変える転機となる。
「講師で山本篤さんが来ていました」。08年北京、16年リオデジャネイロパラリンピックの走り幅跳びでそれぞれ銀メダル、リオでは4×100メートルリレーで銅メダルも獲得した義足アスリートのパイオニア・山本篤(39)は、左足大腿部を切断している。
「自分と同じように義足で、切断した足の長さもほとんど同じ。にもかかわらず、自分には想像もつかない機敏な動きをされていて、本当にシンプルに『カッコいい』と思いました。自分とまったく同じ条件の体で、篤さんは世界トップを争って戦っている。自分にも少なからず可能性があるんじゃないかと思いました」
「できないことができるようになる」という嬉しさ
中学校までサッカーを続けていたが、レベルが高い環境でもなく、何となくプレーしていた。やりたいことも特になかった。その小須田が右足を失い、ランニングクリニックに参加した時、特別な感情が湧いた。「走ることが楽しいと思いました。『できないことができるようになる』ということに、嬉しさを感じていました」。陸上競技に惹かれていった。
だが、陸上を始めるには競技用の義足が必要となる。当然持ち合わせていない。「篤さんのようになりたい」と思いながら、競技に手が出せずにいた。そんな中、ランニングクリニックの約2か月後に思いがけないことが起こる。「一緒に練習しないか」。山本から直接連絡が来た。
「驚いたし、嬉しかったです。個別に声をかけてくれるというのは、何かしら僕に期待を寄せてくれたということだと思いました。篤さんは既に世界トップで戦うアスリートだったけど、当時から同じ障害のクラスの競技人口が少なくて、国内選手がなかなか増えない現状がありました。イベントも『競技人口を増やしたい』『もっと義足で走る楽しさを広めたい』という思いで開催したと思うんです。僕は当時20代前半と若くて、やる気もあったのを感じ取ってくださって、連絡をくれたのだと思います」
山本に走るための義足を借り、指導を仰いだ。これで走れる。関東近郊で一緒に練習できる義足の選手を探し、2016年4月から試合に出始めた。
競技を続けるには時間もお金もかかる。それでも、やるからには本気でやりたい。「東京パラリンピックに出場したい」。腹を決めた小須田は2016年9月、現在まで所属しているオープンハウスに転職し、環境も気持ちも一新した。フルタイムで働きながら、夜や土日に練習を重ねる日々となった。
義足ならではの難しさもあった。競技をはじめた当初は、足を直接入れて体と義足を繋ぐ「ソケット」の調節が上手くいかず、痛みや血が出た。
「筋力がついていく過程で、体型が変わっていきます。太ってもやせても、義足はすぐ体に合わなくなります。僕は運動を始めてから、いったん細くなって、筋肉がついてくるとまた太くなって...と繰り返し、最初の数年間は何度も義足を作り直しました。完成までに時間はかかりました」
「篤さんに置いていかれる」...スノーボードを始めた理由
陸上に打ち込む中、また1つ小須田の心を動かす出来事が起きる。2017年2月の全国障がい者選手権。スノーボードクロスで、尊敬する山本篤が優勝したことをニュースで知った。山本は2018年平昌パラリンピックにも出場している。
「僕は篤さんの足元にも及ばないレベルで陸上をやっていました。陸上の世界トップで戦っているその篤さんが、スノーボードでも日本一になるのか...と衝撃を受けました。勝手に『篤さんに置いていかれる』ような気持ちになりました」
友達を誘ってゲレンデへ行ったのは2017年末。最初は専用の義足ではなく、通常の歩くための義足でスノーボードを滑った。初心者用コースはすぐに降りていくことができた。「小中学校時代、毎年スノーボードをやっていた経験が体に残っていました。それが大きかったと思います」。すぐにスノーボードの競技用義足を購入し、2018年2月には国内大会にエントリー。小須田の「二刀流」が始まった。
「最初の大会の結果は最下位だったんですが、自分がまだ若かったのもあって、運よく日本代表チームのコーチに声をかけてもらいました。2018年11月ごろから海外の試合にも行かせてもらえるようになって、そこから2019年3月ごろまでガッツリ、スノーボードに打ち込みました」
ボードやブーツといった用具は健常者と同じものを使う。ただ義足のスノーボードは、健常者のそれとは異なる難しさがある。
「義足であることで、体のコントロールが難しくなります。義足側の足をどのように使って、全身のバランスを取りながら滑るか。今も常に試行錯誤しながら滑っています。意識しないと健足側にどんどん頼ってしまう。義足を上手く使いこなせないと、滑ったりターンしたりする中で、バランスをすぐに崩してしまう。走るよりも難易度としては高いですね」
冬が明けると、再び東京パラリンピックを目指して夏の陸上競技に集中した。2019年4月、小須田は山本と同じ環境で練習したいと、生まれ育った埼玉から大阪へ拠点を移す。練習拠点となる大阪体育大学の近くにアパートを借り、仕事も東京から大阪の支社へ異動した。
「陸上はそこから、篤さんの生活スタイルを取り入れたり、篤さんにコーチングしてもらったりしています。会社でも競技に比重を置いて時間をもらえるようになりました。篤さんと一緒に練習できることは、それだけで刺激になる。それに、最近はコロナの影響でできていませんが、大学生たちと一緒に練習させてもらっていました。新鮮な環境で自分にとって得るものが多かった。一気にアスリート志向が高まり、競技に身を入れられるようになりました」
二刀流の切り替えに困難はないのか?
陸上を始めて5年。2021年の東京パラリンピックに陸上100メートルと走り幅跳びで出場を果たした。走り幅跳びは自己ベストを更新する5メートル95を記録し、7位入賞。試合後には「楽しかった」と満面の笑み。堂々の初出場だった。
「陸上は世界選手権やアジア選手権にも日本代表として出場したことがなくて、初の世界の舞台がパラリンピック。選手村に入っていくところから会場のスケールの大きさが分かったし、スタジアムに入るだけでプレッシャーを感じました。それまでの試合とはレベルが違う会場の雰囲気。今までの人生で経験したことがない衝撃を受けました」
東京パラリンピックは、小須田の心にさらに火をつけた。「東京で表彰台は狙っていなくて、入賞を目標にしていました。ただ、実際に入賞はできたけど、世界トップレベルとの差を肌で痛感しました。トップは、目指さないと絶対に手が届かない。そしてトップで戦った方がさらに楽しいはず。どんなにつらい練習でも、あれだけの経験ができるなら、次のパラリンピックに向けて頑張れる」。競技へのモチベーションは一層高まった。
余韻に浸ってはいられない。東京が終わると、北京まで半年。再びスノーボードに打ち込む。夏から冬、冬から夏、そしてまた夏から冬へ。気になるのは二刀流の切り替え。困難はないのか。
「最初はやっぱり苦しみます。特に冬から夏に切り替える方が大変。筋肉の使い方が真逆なんです。陸上はフラットな地面から反力をもらって、自ら推進力を生み出していく。スノーボードは傾斜がある雪の上を、道具を使って滑り降りていく。踏ん張り続ける力を使う一方、太ももを上げないし、地面から力をもらうという動きが少ない。
だから、久々に陸上の板バネを履くと体に物凄く衝撃が走ります。最初は全然走れない。継続的に刺激が入っていないと体が忘れてしまうんです。走るという行為は、すごく体に負担がかかるんだと感じます」
夏から冬への切り替えには「そこまで労力はかからない」が、逆に冬から夏へ切り替える際、完全に体の状態を戻すには「1~2か月かかる」という。
「冬から夏への切り替えの方が今でも課題です。冬の期間でも陸上の板バネがついた義足を履くのを、週1回以上は継続していきたい。スノーボードで海外遠征した際も、走れなくてもジャンプするだけでいい。この習慣は今後両方の競技を続けていく上で必要になってくると思っています。逆に、東京を目指していた去年から一昨年はスノーボードの時間を大幅に減らしました。夏の期間にスノーボードの練習をしても、プラスの要素が少ないと思ったので」
二刀流を継続できる理由
負担が伴う夏冬二刀流。それでも、小須田が両競技を継続していくことに迷いはない。理由は2つある。1つは「実際にやっている選手がいるから」。常に先を走る山本篤の存在が、小須田を前向きにさせている。「やれる人がいるなら不可能ではない。先に道を切り開いてくれている人がいるというのは、自分にとって物凄く大きなこと」。現に自らも東京パラリンピックに出場後、北京パラリンピックへの切符を勝ち取った。
もう1つの理由は「どちらも楽しくてやっているから」。純粋にスポーツを楽しむ気持ちが、小須田の原動力となっている。
「両方続けることの難しさはありますが、両方とも楽しい気持ちが圧倒的に強いから続けられています。どちらかがおろそかになるということは感じていなくて、バランスを取りながら両競技ができています。そういう意味では、二刀流という意識はないんですよね。ただ自分がやりたいことをやっているだけなので。体が限界を迎えるまで、夏冬両方とも継続してやっていくと思います」
東京パラリンピックは新型コロナウイルスの影響で異例の1年延期となったが、通常どおり夏冬2年ごとに開催されれば、2年間は陸上重視、次の2年間はスノーボード重視と、それぞれのパラリンピックに向けてピークを持っていくのが理想と考えている。イレギュラーだった東京パラリンピックでも、大会直後の2021年9月上旬、スイスで合宿をしていたスノーボードチームにすぐ合流し、わずか半年ながらスムーズに北京を目指す練習へ移行できたという。
「ありがたいことに今、夏と冬の2競技をやる自分にとって物凄く良い環境の中で競技をやらせてもらっているので、あとは僕自身がそこに飛び込んで、目の前のことを1つ1つ着実にクリアしていくこと。周囲のサポートがなければ、間違いなく両方の競技は継続できませんし、僕もここまで本気で打ち込むことができていないと思います。本当に周りに恵まれました」
競技者として目指す高みと、その先
だから小須田は、競技人生で苦労を感じたことは「ない」と即答する。事故の前は「何も考えずに日々を過ごしていただけだった」という小須田は、右足を切断した時でも、気持ちがネガティブになることはなかった。むしろ、パラスポーツを始め、パラリンピックを目指し、パラリンピックに出場する、という段階を踏んでいく中で、足を失う前にはなかった「物事に本気で取り組むことの大切さ」を感じ続けている。
「足を切断した後に一番感じたのは『歩くことですら喜びなんだ』と知れたことです。成功体験を積み重ねていく中で、メンタル面で大きく成長できました。五体満足の時は普通に歩けたし走れた。当たり前にできることの大切さは、どうしても見失いがちでした。でも、歩いたり走ったりすることは普通のことじゃないんだと気付きました。
今でこそスノーボードと陸上に本気で取り組み、日本一、世界上位を目指しているけど、目標を持てたきっかけは足を失い、篤さんやパラスポーツに出会えたことでした。足を失っていなかったら、今のように何かに本気で取り組んでいることはなかったんじゃないかと思います」
競技人生の目標は「夏も冬も日本一」。将来的には、競技に恩返ししたい思いもある。
「僕は篤さんに思い切り影響を受けてこの世界に飛び込んできました。まだパラリンピックに出場するところまでしか来ていないけど、将来的には次の世代に、自分がしてもらったことを返していくことが大事だと思います。義足で走る人がもっと増えてほしい。スノーボードはもっと少ないのでなおさら増えてほしい。やってみれば物凄く楽しいことなので、もっと広めていきたいです。
東京パラリンピックが終わった後、篤さんが主導で『ブレードアスリートアカデミー』という、義足で走る人を対象にしたイベントを開き、そこに僕も講師として参加させてもらいました。初めて走る人たちが楽しそうにしている姿を見るのがすごく新鮮で、自分も嬉しくなりました。競技をやりながらなのでなかなかできていませんが、そうした普及活動も少しずつやっていければと思います」
今まず見据えるのは自分自身。「競技者として高みを目指すことが何よりも第一。僕自身が競技力を高め、追求していくことが、競技の普及にも繋がっていくと思っています」。人生の楽しさと目標を見つけた「二刀流パラアスリート」小須田潤太の、北京パラリンピック挑戦が始まる。
(J-CASTニュース編集部 青木正典)