「できないことができるようになる」という嬉しさ
中学校までサッカーを続けていたが、レベルが高い環境でもなく、何となくプレーしていた。やりたいことも特になかった。その小須田が右足を失い、ランニングクリニックに参加した時、特別な感情が湧いた。「走ることが楽しいと思いました。『できないことができるようになる』ということに、嬉しさを感じていました」。陸上競技に惹かれていった。
だが、陸上を始めるには競技用の義足が必要となる。当然持ち合わせていない。「篤さんのようになりたい」と思いながら、競技に手が出せずにいた。そんな中、ランニングクリニックの約2か月後に思いがけないことが起こる。「一緒に練習しないか」。山本から直接連絡が来た。
「驚いたし、嬉しかったです。個別に声をかけてくれるというのは、何かしら僕に期待を寄せてくれたということだと思いました。篤さんは既に世界トップで戦うアスリートだったけど、当時から同じ障害のクラスの競技人口が少なくて、国内選手がなかなか増えない現状がありました。イベントも『競技人口を増やしたい』『もっと義足で走る楽しさを広めたい』という思いで開催したと思うんです。僕は当時20代前半と若くて、やる気もあったのを感じ取ってくださって、連絡をくれたのだと思います」
山本に走るための義足を借り、指導を仰いだ。これで走れる。関東近郊で一緒に練習できる義足の選手を探し、2016年4月から試合に出始めた。
競技を続けるには時間もお金もかかる。それでも、やるからには本気でやりたい。「東京パラリンピックに出場したい」。腹を決めた小須田は2016年9月、現在まで所属しているオープンハウスに転職し、環境も気持ちも一新した。フルタイムで働きながら、夜や土日に練習を重ねる日々となった。
義足ならではの難しさもあった。競技をはじめた当初は、足を直接入れて体と義足を繋ぐ「ソケット」の調節が上手くいかず、痛みや血が出た。
「筋力がついていく過程で、体型が変わっていきます。太ってもやせても、義足はすぐ体に合わなくなります。僕は運動を始めてから、いったん細くなって、筋肉がついてくるとまた太くなって...と繰り返し、最初の数年間は何度も義足を作り直しました。完成までに時間はかかりました」