ロックもジャズもソ連市民は知っていた
――文化風俗の面ではどんな社会だったのでしょうか。統制社会の印象が強いですが。
(津久田)「例えば出版ですと検閲が当たり前の国ですが、『西側の退廃ぶりをソ連の青少年に宣伝する』という名目で外国文化を伝える雑誌が発行されて市民も読むことができました。すると目的と手段が逆転し、『退廃した西側を批判する』というのは建前で、皆興味本位でそういった出版物を読んで興味を強くしていく、ということもあったのです。若者たちも建前では『けしからん』と言いながら『格好いいな』と面白がって読んでいて、部数も増えていく。
ラジオもモスクワやレニングラードなら西側の短波放送を聴けましたし、音楽は『肋骨レコード』やカセットテープを秘密に共有しあっていました。肋骨レコードとはレントゲン写真に音源を刻んで自作するレコードのことで、ジャズ・ロックなど当局に禁じられた音楽はこうして楽しんでいました。ビートルズの楽曲などもですね。
ですから、ソ連当局が対外的に自国の芸術としてアピールするバレエやクラシックや映画とは別に、国内でもポピュラー音楽は聴かれていたし育っていたんですね。ソ連崩壊後『ソ連にもロックがあったんだ!』欧米から驚かれましたし、マイケル・ジャクソンが東欧ロシアでツアーを開催したのも、東側での人気が影響していましたかもしれません。
『ロックはいいけどヘビメタはダメ、パンクはダメ』のように、ちょっとずつ緩めたり締め付けたりで西側の文化も受け入れていたのが60年代以降のソ連だと考えられます」
――「ベルリンの壁」や「鉄のカーテン」の閉鎖的なイメージとはちょっと異なる姿が見えてきました。
(津久田)「ソ連の市民も西側の文化には興味津々だったのです。それはエリート層も同じで、書記長のブレジネフ(在任1964~82)も西側のスポーツカーを愛好していたエピソードがあります。1970年代にはソ連も昔より豊かになっていて消費生活を楽しむ余裕ができてきます。
また欧米諸国との関係も温度差があり、例えばイタリアとの関係は良好でファッションや自動車のトレンドも影響を受けていました。ただアパレル産業自体が貧弱で既製服に乏しく、家庭で型紙から縫製していく習慣だったので外でお洒落を楽しむ機会が少ないですね。あと『エミーリャ』で帽子をかぶっている描写が多いですが、当時のトレンドであるのと、ソ連は寒い国ですから冬には帽子が欠かせない、そういうところも考慮して描いています」