「仏が私を、引っぱりよせた」
小学校3年のころ、すでに小説家になろうと思っていた早熟の文学少女。5歳上の姉の文学全集などを乱読していた。父親は徳島市の中心部で神具仏具商を営み、小学校の校区には色街もあった。地唄舞の武原はんさんや、抒情画の中原淳一さんは同じ小学校の先輩にあたる。
成績はいつもトップで、女学校を出て東京女子大へ。卒業直前の1943年、9歳年上の中国研究者と見合い結婚。夫の任地の北京に同行する。それまでは貞淑で「処女と童貞の結婚」(日経新聞「私の履歴書」)だったが、46年に帰国後、4歳年下の夫の教え子と不倫し、夫と3歳の長女を残して突然家出、京都で暮らし始めた。
相手が文学青年だったこともあり、文学への情熱が呼びさまされる。少女雑誌などの投稿が採用され上京。丹羽文雄さんの門下に入り、ここでまた新たに、芥川賞候補にもなったが売れない作家と不倫関係になって8年続く。その後に、13年前に切れていた夫の教え子と復活し、生活の面倒を見たが、再び別れる――など、40代にかけては「完全なアウトロー」「無頼の徒」として「煩悩地獄」に苦しんだ。
出家したのは、あるとき、「仏が私を、引っぱりよせた」からだという(「私の履歴書」)。やがて離婚した夫も、不倫相手の文学青年も、芥川賞候補作家も先立ったが、後年、それぞれの冥福を独り祈りつつ、「心の底から、出家していてよかった」という境地に達した、と述懐している。
友人の哲学者梅原猛さんは、「煩悩のままに生きている作家は瀬戸内さんだけ」「人生を懺悔する『懺悔の文学』を作った稀有な人」(朝日新聞による)と評していた。