『タテ社会の人間関係』のベストセラーで知られ、文化勲章も受章した社会人類学者の中根千枝・東大名誉教授が2021年10月12日、死去した。各紙が11月5日に報じた。94歳だった。
「女性初の東大教授」「女性初の学士院会員」など「女性初」の肩書が多く、戦後の女性研究者のトップランナーとして男性優位の学者世界に風穴を開けた人だった。
120万部のロングセラー
1926年、東京生まれ。弁護士をしていた父の仕事の関係で、小学校6年のときから約6年間を北京で過ごした。津田塾専門学校(現在の津田塾大)を経て、戦後、共学になって2年目の東大に入り、東洋史学科・同大学院で学ぶ。日本各地で農村調査をしたあと、1953年からインド、イギリスなどに約4年間留学。少数民族のフィールドワークなどを続け、シカゴ大、ロンドン大で教えた。
帰国後の64年、中央公論に発表した論文「日本的社会構造の発見」が、朝日新聞の論壇時評で猪木正道・京大教授に激賞される。それを67年になって、『タテ社会の人間関係』(講談社)として出版したところ、日本社会の特質を理論的に分析した本として大きな反響を呼び、これまでに約120刷、約120万部というロングセラーとなった。「タテ社会」という文言は本文にはなく、編集者がタイトル用に考えた造語だったいという。
70年に東大東洋文化研究所教授、80年に同所長、95年には日本学士院会員。いずれも女性では初めてだった。とりわけ学者の最高峰とされる学士院は、それまでの200人余りの会員がすべて男性。中根氏のあと2014年に田代和生(かずい)・慶大名誉教授が選任されるまで唯一の女性会員だった。93年に文化功労者、2001年には文化勲章。73年から約10年間、国際人類学民族学連合の副会長を務めるなど、世界的な学会でも活躍した。
三笠宮さまと机を並べる
東大で東洋史に進んだのは、少女時代を北京ですごし、中国やアジアに関心を持っていたことが大きかった。社会人類学を学ぶようになってからも、中国人や他国の人と触れ合う中で育った経験が生きたという。
「女性初」の肩書が付きまとうことになったのは、たまたま専攻した社会人類学が、日本ではまだ新しい学問だったことが大きいと振り返っている。これが英文学だったら、そうはならなかっただろうと。
読売新聞の連載「時代を開いた女たち」によると、子供のころから、「少年倶楽部」を愛読し、大陸が舞台になった冒険小説を夢中で読む少女だったという。楼蘭遺跡を発見したスウェン・ヘディンにも憧れた。20代半ばすぎ、早くもインド奥地の現地調査へ。ポーターと現地語通訳だけを連れ、単身で「首狩り族」と呼ばれた部族がいるようなところに入り込み、長期滞在した。このインドでの「母系制」研究が国際的に評価され、レヴィ・ストロースら世界のトップレベルの研究者たちと交流を深めることになった。
『タテ社会』が大ヒットし、数少ない高名な女性学者ということもあって、国内の審議会などでは引っ張りだこになった。3つほど掛け持ちする時期が長く続いたという。文部科学相の私的懇談会「国際協力懇談会」や、首相の諮問機関「対外経済協力審議会」のトップも務めた。
16年10月に亡くなった三笠宮さまとは戦後、東大の史学概論の講義で机を並べたことがあった。日経新聞によると、公務が多忙で講義を欠席されることもあった三笠宮さまに、よくノートを貸した。講義の内容を漏らさず書き取ったノートを見た三笠宮さまから、「あなたは偉い人になりますね」と言葉をかけられたこともあったという。その予言どおり、専門分野はもちろん、女性学者として前人未踏の大きな足跡を残した。