三笠宮さまと机を並べる
東大で東洋史に進んだのは、少女時代を北京ですごし、中国やアジアに関心を持っていたことが大きかった。社会人類学を学ぶようになってからも、中国人や他国の人と触れ合う中で育った経験が生きたという。
「女性初」の肩書が付きまとうことになったのは、たまたま専攻した社会人類学が、日本ではまだ新しい学問だったことが大きいと振り返っている。これが英文学だったら、そうはならなかっただろうと。
読売新聞の連載「時代を開いた女たち」によると、子供のころから、「少年倶楽部」を愛読し、大陸が舞台になった冒険小説を夢中で読む少女だったという。楼蘭遺跡を発見したスウェン・ヘディンにも憧れた。20代半ばすぎ、早くもインド奥地の現地調査へ。ポーターと現地語通訳だけを連れ、単身で「首狩り族」と呼ばれた部族がいるようなところに入り込み、長期滞在した。このインドでの「母系制」研究が国際的に評価され、レヴィ・ストロースら世界のトップレベルの研究者たちと交流を深めることになった。
『タテ社会』が大ヒットし、数少ない高名な女性学者ということもあって、国内の審議会などでは引っ張りだこになった。3つほど掛け持ちする時期が長く続いたという。文部科学相の私的懇談会「国際協力懇談会」や、首相の諮問機関「対外経済協力審議会」のトップも務めた。
16年10月に亡くなった三笠宮さまとは戦後、東大の史学概論の講義で机を並べたことがあった。日経新聞によると、公務が多忙で講義を欠席されることもあった三笠宮さまに、よくノートを貸した。講義の内容を漏らさず書き取ったノートを見た三笠宮さまから、「あなたは偉い人になりますね」と言葉をかけられたこともあったという。その予言どおり、専門分野はもちろん、女性学者として前人未踏の大きな足跡を残した。