白土三平さんに影響与えた「反骨の父」 「小林多喜二像」描いたプロレタリア画家

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   2021年10月8日に亡くなった漫画家白土三平さんの父、岡本唐貴(おかもととうき=本名・岡本登喜男、1903~86)さんは、戦前からの画家だった。それも、普通の画家ではなかった。

   昭和初期、早々とプロレタリア美術家同盟の結成に参加し、中心メンバーとして活動、拷問で死んだ作家、小林多喜二の肖像画なども描いていた。虐げられた人々を主人公とする「白土マンガ」には、この反骨の父の思想と人生が色濃く投影していた。

  • 岡本唐貴作「小林多喜二像」(1933年、倉敷市立美術館蔵。寄贈者は岡本登=白土三平/同館公式サイトより)
    岡本唐貴作「小林多喜二像」(1933年、倉敷市立美術館蔵。寄贈者は岡本登=白土三平/同館公式サイトより)
  • 白土三平フィールド・ノート―土の味(小学館)
    白土三平フィールド・ノート―土の味(小学館)
  • 岡本唐貴作「小林多喜二像」(1933年、倉敷市立美術館蔵。寄贈者は岡本登=白土三平/同館公式サイトより)
  • 白土三平フィールド・ノート―土の味(小学館)

プロレタリア美術家同盟の結成に参加

   岡本さんについては2001年、出身地の岡山県倉敷市の倉敷市立美術館で初の本格的な回顧展が開かれた。「尖端に立つ男岡本唐貴とその時代」というタイトル。16年にも同館で「遠い昭和 没後30年・岡本唐貴」展が開かれた。日本の美術史関係者の間では、このところ再評価の機運が高まっている。

   それらの資料によると、岡本さんは1922年、東京美術学校に入学。彫刻や油絵を学び、29年、プロレタリア美術家同盟の結成に参加した。中央委員となって理論面と制作面を指導し、「第2回プロレタリア美術大展覧会」のポスター、「争議団の工場襲撃」など労働者をテーマにした作品などのほか、33年には、拷問死した小林多喜二の最期の姿「小林多喜二死面」などを残している。小林は29年に『蟹工船』を発表、プロレタリア文学の旗手で、親しい間柄だった。

   岡本さんも警察には常にマークされ、各地を転々とした。何度も逮捕され、拷問も受けた。樫の木刀で背中を気絶するほどに殴られ、脊髄を痛め、長期間の闘病を余儀なくされる。時折、個展などを開いたが、赤貧生活が続いた。疎開先の長野で終戦を迎えた。

   戦後は東京に戻り、一時期は共産党員に。のちに離党した。戦前の著書として『プロレタリア美術とは何か』(30年)、『新しい美術とレアリズムの問題』(33年、即日発禁)など。戦後も『民主主義美術と綜合リアリズム』(46年)、『日本プロレタリア美術史』(67年)などの共著がある。作品集もいくつか出版され、『岡本唐貴自伝的回顧画集』(83年)に、拷問の体験など戦前戦後の活動を詳述している。

「血のメーデー事件」に参加

   白土さんの家にはしばしば、父の仲間が出入りしていた。底辺社会を転々とする中で在日朝鮮人や、被差別の人々とも知り合った。父に代わって、子供のころから大人に交じり、農作業や山仕事、狩猟の下働きなどもした。白土作品に登場する民衆群像の多くは、実際に白土さんが少年時代に触れ合った人々を原型としている。「白土は、子供の頃に見た冷酷な社会の姿や飢えの感覚を決して忘れなかった」(『白土三平伝』、小学館)

   家には様々な画集があり、「絵」は常に身近だった。画家を志した時期もあったようだが、「食うため」に紙芝居や貸本漫画の世界に入る。

   『白土三平伝』によると、左翼シンパだった白土さんは、21歳になったばかりのころ、練馬の日雇い労働者グループとともに「血のメーデー事件」(52年)に参加している。デモ隊に警官が発砲、目の前で死者が出た。一時は共産党への入党を考えたこともあったが、父は、「政治と芸術は別だ」と諭したという。自身の戦前・戦後の、長い経験を踏まえたアドバイスだった。

幅広い読書と「弾圧」の記憶

   長編大作が多かった白土さんは、かなりの読書家だった。『白土三平伝』によると、『忍者武芸帳 影丸伝』を執筆するときは、バルザックの『農民』やショーロホフの『静かなるドン』、トルストイの作品などを読んでいた。「影丸」像は、ロシアの画家が描いた17世紀の抵抗運動家、ステンカ(スチェパン)・ラージンの風貌を念頭に置いた。

   70年代半ばから、アメリカの先住民やギリシャ神話を題材にした作品を発表しているが、文化人類学やフロイトの心理学の知識を取り入れている。

   晩年、最近読んで面白かった本として、マルキシズムと国粋主義の相克を描いた『天皇と東大』(立花隆著)、毛沢東の赤裸々な評伝『マオ』(ユン・チアン著)、資本や国家の起源に迫った『世界共和国へ』(柄谷行人著)などを挙げている。

   『白土三平伝』の著者で、長年、白土さんと深く付き合ってきたライターの毛利甚八さんは、プロレタリア画家・岡本唐貴の子として育って蓄積された教養が、白土マンガには惜し気もなく投入されていたと見る。加えて父の「弾圧に耐えた実体験」も。

「『忍者武芸帳 影丸伝』を描いていた二十代の白土三平の脳裏には、父・唐貴と画家仲間たちが警察の目を逃れながら生き延びていくありさまが繰り返しよみがえってきたに違いない」(『白土三平伝』)

   2016年に開かれた「没後30年・岡本唐貴展」では、個人所蔵家から倉敷市立美術館に寄贈された岡本作品が多数公開された。「小林多喜二像」など、その多くの作品の寄贈者として「岡本登」の名が記されている。これは、白土さんの本名だ。自分に様々な影響を与えた父の作品を長年大事に保管していたことがうかがえた。

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