『忍者武芸帳 影丸伝』『カムイ伝』などの作品で一世を風靡した漫画家、白土三平(しらとさんぺい=本名・岡本登)さんが2021年10月8日、死去した。89歳だった。小学館が26日に発表した。
虐げられた人々が主人公となる壮大な歴史劇画で知られ、全共闘世代などにカリスマ的な人気があった。代表作の『カムイ伝』は断続的に40年にわたる長期連載となったが、未完に終わった。有名になってからも時流とは距離を置いて孤高を守り、房総半島で自給自足に近い生活を送っていた。絵本作家の岡本颯子さんは妹。
紙芝居からスタート
1932年、東京生まれ。父の岡本唐貴さんは画家。困窮生活の中で関西や長野など各地を転々とした。白土さんは、少年のころから山仕事や農作業、力仕事で家計を支えた。
戦後、家族と東京に戻る。経済的な事情もあり、旧制中学を中退、父の友人を介して紙芝居の模写・彩色の仕事を始めた。やがて貸本漫画を描くようになり、多数の作品を発表した。59年からスタートした『忍者武芸帳 影丸伝』が大ヒット、62年まで全17巻を刊行し、大手出版社からも声がかかるようになった。63年、『サスケ』『シートン動物記』により第4回講談社児童まんが賞受賞。
白土さんの作品は、残酷なシーンが多いということで大手出版社からダメ出しされ、連載が打ち切りになることもあった。
唯一の自伝ともいえる『白土三平伝 カムイ伝の真実』(毛利甚八著、2011年)小学館)によると、好きなように描きたいということから1964年、『サスケ』の印税をもとに自費で青林堂から新雑誌「ガロ」を創刊、新作『カムイ伝』の連載を始めた。最下層の身分に生まれたカムイを主人公に、不条理な封建社会への怒りが渦巻く物語が、60年代の時代状況とマッチ、熱狂的な支持と共感が広がり、「白土ブーム」を呼びおこした。
大島渚監督や崔洋一監督が映画化
作品は知識人や文化人らに注目され、漫画を一つの芸術文化として論じる「マンガ評論」のきっかけをつくった。63年、「思想の科学」で取り上げられたのを皮切りに、週刊誌などでも特集記事が組まれた。
「大学生が唯物史観を学ぶ白土マンガ」(週刊現代65年10月28日号)
「マンガ界の風雲児 白土三平」(週刊朝日66年12月2日号)
「白土三平とガロの不思議な魅力」(平凡パンチ67年3月6日号)
67年には、大島渚監督によって『忍者武芸帳』が映画化され、「白土ブーム」に拍車をかけた。
『カムイ伝』は71年に第一部が終了。88年から2000年まで「第二部」が続いた。「第三部」は構想のみで終わった。別途、『カムイ外伝』なども発表され、それをもとに09年には崔洋一監督による実写映画『カムイ外伝』もつくられた。
野に身を置いた人生
60年代の後半から房総半島の海辺の町で過ごすことが増えて、メディアとの付き合いは、ごく一部の関係者に限られた。一方で、地元の漁師らとは懇意になり、漁労技術を習得、長野などの少年時代に覚えた山仕事や農作業の経験も加味し、一時はアウトドア雑誌にネーチャー生活の連載をしていた。『白土三平 フィールド・ノート』『白土三平の好奇心1 カムイの食卓』などの著書もある。
庭にはシャモやチャボを放し飼い。山で珍しいキノコを探し出し、タヌキ汁をつくる。磯ではタコやトコブシ、海で様々な魚を仕留め、すっぽん料理もお手のもの・・・狩猟採集民や海人が保持していた生きるための技術を体得し、『カムイ伝』の描写にも投影していた。作品の主人公たちと同じく、自らも徹底して、野に身を置いた人生だった。