パッキャオが貫いた「負けの美学」 6階級制覇より凄い?専門家が語った「本当の功績」とは

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98年5月に東京・後楽園ホールでノンタイトル戦

   98年12月にWBC世界フライ級王座(50.8キロ)を獲得してからスーパーバンタム級(55.3キロ)、スーパーフェザー級(58.9キロ)、ライト級(61.2キロ)、ウエルター級(66.6キロ)、スーパーウエルター級(69.8キロ)を制した。世界6階級制覇はオスカー・デラホーヤ(米国)に次ぐ史上2人目の偉業だ。

   プロキャリアは72戦に及び、そのほとんどが母国フィリピンと米国のリングだったが、過去に1度だけ日本のリングに上がったことがある。98年5月、当時東洋太平洋フライ級王者だったパッキャオは東京・後楽園ホールでノンタイトル戦を行った。

   この興行を主催したのは協栄ジムだった。先代会長の故金平正紀氏がパッキャオを招へいした。当時19歳のパッキャオは世界タイトルを獲得する前で世界的には無名選手だった。J-CASTニュース編集部は、トレーナーとしてこの興行に携わった金平桂一郎氏(現協栄ジム会長)に取材し、パッキャオにまつわるエピソードを聞いた。

「パッキャオは当時まだ無名の選手でしたが、先代の会長にはパッキャオとマネジメント契約を結ぶ意向がありました。パッキャオの将来性を買ってのことだったと思います。日本での試合までにパッキャオとのマネジメント契約は実現しませんでしたが、その年(98年)の12月にパッキャオがフライ級の世界王座を獲得した後も話は続いていたと記憶しています」(金平氏)
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