外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(44) タリバン政権のアフガンは再び震源地になるのか

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アフガンという国

   だがこうした米国の戦略的な誤り、戦術的な失敗という以前に、そもそも米国がアフガンの地政学的な特異性やタリバン登場の歴史的な背景を理解していたかどうか、はなはだ疑わしい。

   アフガニスタンは19世紀を通して、ユーラシア大陸の覇権を競う列強の「グレート・ゲーム」の舞台となった国だ。しかも多くの大国が触手を伸ばしながら、峻険な山地と外国の支配を嫌うアフガン人の屈強な抵抗で進出を撥ねつけた。

   作家のアーサー・コナン・ドイルはシャーロック・ホームズが初めて登場する小説「緋色の研究」(1887年刊行)で、やがてベーカー街で同居する元軍医ワトソンは博士との出会いをこう描いた。

   知人を介して会った風変りなホームズは、初対面のワトソンを見るなり、「アフガニスタン帰りですね」と言い当てる。

   観察力と演繹力さえあれば、一瞬にして見分けられる、とホームズは言う。あなたの風采は軍人か医師。顔は日焼けしているが、白い腕にけがをしている。「熱帯地方での戦争帰り」なら、「アフガン戦争」しかない。ホームズはそう種明かしをする。名探偵が初登場する「緋色の研究」冒頭の鮮やかな挿話だ。

   ここにいう「アフガン戦争」とは1878~81年の第2次アフガン戦争を指す。大英帝国は19世紀から20世紀にかけ、アフガンと3度干戈を交えた。1838~42年の第1次と、ワトソンが従軍した第2次は、南下して不凍港の獲得を目指すロシア帝国の機先を制するため、アフガンを支配下に置こうとした英国の侵略戦争だった。英国は中東に生命線を確保し、インドの権益を確保するためにさらに北に進出した。ロシアは鉄道を敷いて南下し、インドを脅かした。これが「グレート・ゲーム」の構図だった。

   2度のアフガン戦争でいずれも当初は英軍が優勢だったが、各地の反乱に手を焼いて被害を拡大し、英国は引き下がる。第2次アフガン戦争で英国はアフガンを保護国にしたが、1919年の第3次アフガン戦争では、アフガン側がインド帝国領に入り、独立を勝ち取った。

   つまりアフガンは、一度は占領を許しても、山岳地帯という要害の地の利をいかして屈服せず、最終的には、大国を撃退する。しかし、外敵に対する抵抗力は一方で、自力での近代化への意欲をそぐことになり、国土の大部分を占める地方部は中世の闇の中に取り残された。

   9・11同時多発テロのあと、私がロンドンで会った歴史学の泰斗マイケル・ハワード氏は「3次にわたるアフガン戦争で英国は教訓を得た」と話した。それは「アフガンを占領する国は必ず敗れる」という鉄則だったという。彼はその年10月に英紙ガーディアンの質問に対し、米英によるアフガンでの対テロ戦争は失敗する、と断言していた。私の取材に対し、彼はこうも加えた。「米国は『我々は戦争に勝つ。あとは任せる』という態度だ。アフガンが安定しない限り再び内戦になり、テロの温床になる恐れがある」。その予言は20年後の今振り返ると、正しかったと思う。

   英国との闘いで独立を勝ち取ったアフガンはその後君主制を敷き、1933年以降はザヒール・シャーが国王になるが、1973年のクーデターでシャーが倒され共和制に移行。さらに78年にはアフガニスタン人民民主党がクーデターで共産党政権を樹立するが、全土で抵抗運動が起きて泥沼化したため、1979年12月には、旧ソ連軍が侵攻して傀儡のカルマル政権を打ち立てた。

   この旧ソ連によるアフガン支配の10年間、米国はCIAを通してパキスタン側の難民キャンプを拠点にアフガンに出撃するイスラム戦士・ムジャヒディンに武器や資金を与え、ソ連支配に揺さぶりをかけ続けた。米国の支援はパキスタン政府を通して実施されたが、その対象は兵士として有能なイスラム原理主義者が主で、穏健な民主主義勢力は意図的に排除された。米国のカーター政権は当時、日本政府にアフガン難民のための「戦略的人道支援」の提供を要請して、対ソ代理戦争での間接的な役割を課した。日本が1979年度から91年度の間に拠出したアフガン難民への援助は計627億円にのぼった。

   私が最初にアフガンを訪れたのはそのころで、首都カブールは旧ソ連軍が制圧していたものの、市内でも爆弾テロが相次ぎ、郊外にはゲリラが出没していた。パキスタンのペシャワールに行くと、難民キャンプではゲリラ兵が難民の大勢の若者たちを相手に射撃や格闘術、暗殺術の手ほどきをしていた。

   旧ソ連は、中央アジアなどのイスラム勢力の不安定化を理由にアフガンに介入したが、代償は高くついた。陸路の輸送や補給が困難を極めたため、アフガン戦費は膨大な額にふくれあがり、1万5千人以上のソ連兵士が亡くなった。旧ソ連は89年2月に完全撤退したが、長引くその介入が、ソ連崩壊の遠因の一つになったともいわれる。

   では旧ソ連撤退後、米国はどうしたのか。一言でいえば、何もしなかった。かつて肩入れしたムジャヒディン各派がアフガンに戻り、血みどろの内戦が勃発するのを放置したのである。

   やはり9・11テロ事件の後、私はワシントンで米中央情報局(CIA)の元パキスタン担当責任者ミルトン・ベアーデン氏に会って話を聞いた。彼は86年から89年にかけ、ムジャヒディン各派に大量の武器と資金を供給した。89年に旧ソ連軍が撤兵する姿も現地で確認したという。

「あの国は、麻薬の材料になるケシの一大産地だ。地域ごとに軍閥が支配し、通行料を取っては、それを軍資金に充てている。全土を支配する政権が育たない風土だ」

   だが、米国が見捨てたために、アフガンは国際テロ組織が訓練や出撃をする根拠地になってしまったのではないか。その私の質問に対し、ベアーデン氏はこう答えた。

「CIAは宣教師ではない。作戦が終われば撤収する。しかし、米国が関与しなければ地域は安定しない」

   こちらの「予言」も半ばは当たっていたように思える。

   旧ソ連が支えたナジブラ政権が崩壊した後、アフガンのムジャヒディン諸派は暫定評議会を結成した。だが、92年にタジク族系のラバニ大統領が就任して以降、主導権をめぐって内戦が勃発。パキスタンが推すパシュトゥン族系のヘクマチアル派などが激しい抗争を続けるなど、2年にわたって諸派が乱れて争い、国土は荒廃した。

   諸派が骨肉の権力闘争を繰りかえすなか、国連は94年初め頃から、パキスタンのアフガン人難民キャンプで「タリバン」を名乗る集団が急速に勢力を伸ばしているという報告を、現地の人道支援組織からしばしば受けた。タリバンは、アフガン人難民にとって唯一の教育機関であるデオバンディ派イスラム教神学校で、排外的な原理主義を学んだ青年たちのグループで、タリバンという名は「神学生」を意味するという。タリバンは当初、「腐敗したムジャヒディン」の打倒を目指す「世直し運動」として、長年の戦乱につかれたアフガン国民の支持を得た。タリバンは快進撃を続け、96年には首都カブールを制圧した。

   国連は1998年、タリバンとムジャヒディンを和解させるべく、ラフダール・ブラヒミ氏を担当特使に任命した。ブラヒミ氏はアルジェリア外相、アラブ連盟副事務局長などを歴任したベテラン外交官だ。川端さんは、そのブラヒミ特使の補佐官として、何度もアフガニスタンに入り、タリバンとの折衝にあたることになった。

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