【連載】山田千紘の「プラスを数える」~手足3本失った僕が気づいたこと~
東京パラリンピックは2021年9月5日に閉会式を迎える。自国開催で日本中が盛り上がったこの12日間、観戦した人それぞれに印象的な場面があっただろう。
テレビの前で涙を流した競技があったと明かすのは、YouTubeやSNSなどで障害に関する情報発信を続ける山田千紘さん(29)。20歳の時に事故で左腕以外の手足3本を失い、パラリンピックにも大きな関心を抱いてきた。山田さんは、東京パラリンピックのどんな競技に心を動かされ、何を感じたのか。本人が語る。
(この連載では、身体障害の当事者である山田千紘さんが社会や日常の中で気づいたことなどを、自身の視点から述べています。)
笑顔で「楽しかったですね!」
僕が見ていた中で一番感動したのは、走り幅跳び男子のT63(義足)クラスです。全ての選手に心から拍手を送りたい試合でした。
何がすごかったかというと、まず決勝でほとんどの選手が自己ベストを出したことです。日本のパイオニア山本篤選手(39)は自身のアジア記録を更新する6メートル75で4位、小須田潤太選手(30)は自己ベストの5メートル95で7位です。それでもパラリンピックの表彰台には届かない。上位3選手は7メートルの跳躍をバンバン出す。大興奮ですよね。「また記録出た!」と。最後まで勝負の行方が分かりませんでした。
小須田選手は僕の友達でもあります。僕が事故に遭ったのと同じ時期に、国立障害者リハビリテーションセンター(埼玉県所沢市)に入院していたのがきっかけで仲良くなりました。その小須田選手の試合後インタビューが、本当に感動しました。スポーツの醍醐味が詰まっていたと思います。
競技を終えてどうだったかと聞かれ、笑顔で「楽しかったですね!」と言っていたんです。自分より記録が上の選手がいて、悔しさも当然あるでしょう。でもそれを遥かに上回るかのように、パラリンピック初出場の喜びを、試合直後に清々しい表情で語っていました。
「ここからがスタート」とも話していて、3年後のパリパラリンピックを目指す気持ちが伝わってきました。日本を引っ張る山本選手に続くのは、小須田選手になってくる。あのインタビューを見て、カッコよかったのと、お疲れ様でしたという気持ちと、そして今後への期待と、熱いものが込み上げました。
同時に、僕自身も刺激を受けました。もっと頑張らないとな、と思いました。僕も本気でパラリンピックを目指していた時期が2年ほどだけどあって、その大舞台に立ったことを本当に尊敬しています。今大会で小須田選手のことは、僕が誰よりもテレビにかじりついて応援していたと思います。
世界記録を出して泣いた選手
僕が走り幅跳びに注目しているのは、小須田選手が出場しているからというのもありますが、両足のない選手が片足のある選手と戦っていることに惹きつけられたからです。片足切断のT63と両足切断のT61はクラスが違いますが、走り幅跳びは同じ土俵で戦います。
片足があるのに比べて、両足がないのは普通に考えたらハンディキャップです。それでも東京パラリンピックの金メダルに輝いたのは、両足義足でT61クラスのヌタンド・マラング選手(南アフリカ)でした。
マラング選手は、生まれた時に両足の膝から下に障害があって車いす生活だったけど、「義足なら歩ける」と聞いたことで、少年時代に自らの意志で足を切断することに決めたそうです。両足がないのに、片足がある選手よりも記録を出して、物凄い努力をしてきたであろうことは想像を絶します。それに、使っている義足のメーカーが僕と同じオズールなんですよ。
最終6回目の跳躍で、マラング選手は7メートル17でトップに立ちました。世界記録を出して、泣いているんですよ。あれで僕も号泣しました。僕はパラリンピックの舞台に立ったわけではないし、アスリートでもないけど、「両足がない」という共通点があって、どこか自分を重ねて見ていたところがありました。気持ちは本人にしか分かりませんが、色々な葛藤や苦労があったのだとしたら、その中で世界の頂点に立ったのは本当にすごいこと。そんなことを考えて感動したのだと思います。
試合はその後、優勝争いをしていたレオン・シェファー選手(ドイツ)も、マラング選手と同じくらいの大ジャンプをしました。だから抜かれているかもしれない。でもマラング選手は記録が発表される前、シェファー選手に駆け寄ってグータッチしました。お互いがお互いを称えるように。その次のダニエル・ワグナー選手(デンマーク)の跳躍の後も、マラング選手は同じようにグータッチしていました。認め合っているんですよね。
最終的にシェファー選手が7メートル12で銀メダル、ワグナー選手が7メートル7で銅メダルという大接戦でした。誰が優勝するか分からない、最後の最後までハラハラドキドキする試合でした。
板バネがついた義足を履いた経験
色々な意見があるかもしれません。走り幅跳びでは「板バネ」がついた競技用の義足を使います。両足義足の方がバネの力が大きくなるのではないか。そんな声も聞いたことがあります。でも、板バネをコントロールするのはとんでもなく難しい。
実際に僕も、板バネがついた義足を履いたことがあります。小須田選手と一緒に以前、競技用義足を扱う東京・豊洲の「ギソクの図書館」を訪れた時です。
いざ履くと、立っていられないんですよ。両足つま先立ちのような感じ。アンバランスすぎて止まってもいられない。誰かの肩につかまって走る練習をするけど、とにかく転びました。義足で歩くのは結構うまい自信があったんですけど、バンバン転びます。「よっしゃ順調だ」と思っても、2~3歩油断するとバランスを崩す。最終的にピョンピョン跳ねるくらいはできて楽しかったですが、24時間テレビのゴール直前くらいのスピードでしか進めません。
アスリートとは比べられないかもしれません。でも、僕にもそんな経験があるから、走り幅跳びのパラリンピック選手たちが、いかに努力して肉体と道具を使いこなしているかが想像できます。体験しているから思うんです。バランスを取ることすら難しいのに、義足をコントロールして、全速力で助走をつけて大ジャンプするって、計り知れないことだと。
いろんな角度から見ていくと、アスリートの皆さんは物凄い次元で戦っていることが分かります。人の心をこれだけ動かしてくれる。パラリンピックは1年延期になって調整が難しかった中、多くの選手が自己ベストを出した走り幅跳びは本当に興奮しました。
誰しも無限の可能性がある
車いすスポーツでは、ラグビー日本代表が金メダルを目標にしていた中、銅メダルで大会を終えました。でも、応援している身としては十分でした。何が感動したかというと、準決勝で英国に負けた時、つまり金メダルを逃した時に、選手たちが泣いていたんですよ。まだ3位決定戦でメダル獲得のチャンスはあるのに。それを見て、やっぱり悔しいよな、泣いていいよと思って、僕も試合を見ながら泣いていました。
元々の意気込み、日本開催のパラリンピックで金メダルを取るという思いが本当に強かったのが伝わりました。それでも、切り替えて3位決定戦はオーストラリアに見事勝利。最後まで戦い抜いての銅メダルでした。
僕は東京オリンピックの聖火ランナーで走る予定でしたが、新型コロナウイルスの影響で公道走行は中止になりました。その時、競技用義足を提供してもらって、オズール社内に残っています。東京パラリンピックを見て、また時間を作って、プライベートで履いて走ってみたい気持ちも出てきました。ただ、義肢装具士がいないと使えないので、タイミングが合えば、というところですね。
この東京パラリンピックでは、日本代表がメダルを獲得したというニュースが、テレビの速報やスマートフォンのプッシュ通知でどんどん送られてきました。そんな情報の伝わり方も含め、これまでの大会とは違う盛り上がりがあったと感じます。
僕自身も日々YouTubeやSNS、メディアなどで情報発信しています。パラリンピックを通じて改めて思ったのは、誰しも無限の可能性があるということ。いろんな障害がある人が世の中にいます。会社員として仕事をしていたり、アスリートとしてスポーツをしていたり、「自分らしさ」にはいろんな形がある。誰の想像もつかない、型にはまらない生き方がそれぞれにあるんだと、パラリンピックを通じて感じました。