「ウマ娘 プリティダービー」に登場するナイスネイチャは、「庶民派」を自称し控え目な印象をプレイヤーに与えるキャラクターだが、そこがかえって愛される一因だ。
モチーフとなった競走馬・ナイスネイチャは、現役時代に合計41戦に出走。GI制覇にこそ手が届かなかったものの1990年代の競馬界をにぎわせた、戦歴以上に記憶に残るスターホースだった。
どんなレースでも奮戦してくれた
1988年生まれのナイスネイチャの現役時代、ゲーム「ダビスタ」こと「ダービースタリオン」は1991年にファミコン版が、1994年にはスーパーファミコン版のダビスタⅡが発売され、子供まで広がる競馬ブームの真っ只中であった。
「日本で一番馬券が売れていた時代」でもあり、この時代の「庶民派」スターとしてナイスネイチャは目の離せない競走馬だった。そして時代を経て今、ウマ娘によってまた愛されるナイスネイチャ。33歳となった現在、馬としては超のつく長寿であり引退馬支援の募金が集まったニュースは記憶に新しい。
庶民派ナイスネイチャといえば1991年から93年にかけて「有馬記念3年連続3着」を記録したように、まさしくブロンズコレクターの代名詞がぴったりな馬。6歳(旧馬齢、以下馬齢は全て当時の旧馬齢表記)の年末に有馬3年連続3着となるまでの経歴は23戦で1着6回・2着4回・3着8回の【6-4-8-5】と、3着以内が18回を占めている。庶民派複勝ファンにとってこれほど優しい馬はいないだろう。どんなレースでも奮戦してくれる。そんな馬だった。
筆者なりの当時の温度感でもナイスネイチャは「善戦マン」「ジリ脚」と呼ばれていたものの、それは最高峰G1などでの成績であり、決してナイスネイチャが弱い馬として語られたものではなかったと思っている。厩舎に贈られたファンからの千羽鶴も絶えることなく、応援したい気持ちをくすぐる馬だったのだ。
有馬記3年連続3着を達成した翌年の1994年、筆者が初めて友人の家にダビスタのブリーダーズカップ対戦をしに遊びにいくと、壁にズラリと張られていたのは、なんと「ナイスネイチャの単勝」。当時、1991年鳴尾記念からずっとナイスネイチャはほとんど2着か3着だったこともあり、当然全てハズレ馬券だったにもかかわらず、である。今思えば、どれだけ愛されていたのか実感するモノだった。
高松宮杯での松永騎手の名セリフ
そんなナイスネイチャは同年7月の中京競馬場・高松宮杯(当時は2000mのG2戦)で約2年7か月ぶりの勝利を飾る。1戦を除きほぼ全てのレースで騎乗していた松永昌博騎手も「負けても負けても応援してくださったファンの皆さんを思うとホッとした」といったコメントを残すほど、この馬を愛するファンは多かったのである。
1994年のこの高松宮杯がナイスネイチャ最後の勝利となった。その後2年にわたり現役で走り続け、通算41戦ものキャリアを重ねたナイスネイチャの生涯獲得賞金は6億1918万円。コツコツ積み上げた賞金は、G1に勝つよりも多い額にまで増えていたのだ。
引退後もナイスネイチャは「庶民派アイドル」だった。それはワイド馬券が発売開始された1999年にキャンペーンキャラクターに起用されたことが象徴していよう。ナイスネイチャが「ワイド」と書かれた紙を口にくわえているポスターは、「3着以内の馬を当てればよい」というワイド馬券の条件をたった1つのシーンで表現した。
下手な説明よりナイスネイチャが登場すれば、競馬ファンなら誰でもわかる。ナイスネイチャは引退しても庶民派馬券の味方だったのだ。
小倉記念で贈られるトロフィーの意味
さて、ウマ娘でのナイスネイチャも実に庶民派アイドルである。若駒ステークスでトウカイテイオーと対戦し、そこでトップとの壁を感じるシーンがゲームでもアニメでも登場するのだが、次の目標レースは小倉記念だ。
史実では骨膜炎で休養のため1991年春のクラシックに挑戦できず、中京で同世代同士の条件戦に2着とした後、小倉での古馬との条件戦に挑み2連勝、その次小倉記念も勝つことで3連勝によるオープン入りを果たし、同年の菊花賞出走へとつなげる。「菊花賞に間に合う」のである。
アニメ2期の2話では、チーム・カノープスで「あのさ、私が菊花賞出たいと言ったらどう思う?」「この後のレースで1着を獲り続ければ、なんとかなる?」「これ勝って、これ勝って、小倉記念に勝つ。そうすれば出られる?」とトレーナーに語るナイスネイチャは夏の小倉での3連勝を表現している。
小倉の商店街の人々にまで応援されたゲームでの小倉記念後、ナイスネイチャはトレーナーから折り紙のトロフィーを受け取るシーンがあるが、これはあの「千羽鶴」の比喩表現ではないだろうか。折り紙のトロフィーはナイスネイチャの親しみやすさを強調しているとともに、細かいところが史実とクロスしている。
中日新聞杯に勝った彼女は...
また、シナリオの終盤で有馬記念直前に出走する中日新聞杯について。史実のナイスネイチャが中日新聞杯に出走したことはない。だが、ナイスネイチャをゲームのウマ娘で表現するときに、この中日新聞杯を1着となる条件とするのは実はかなり大事なことだと思っている。
まず4歳時にナイスネイチャは当時有馬記念の2週前開催だった12月の鳴尾記念を1番人気で勝利している。2012年から鳴尾記念は12月から6月に開催時期が移動しており、今の日程では再現できない。そして思い出して欲しい。約2年7か月ぶりに勝利した高松宮杯は中京でのもの。そして現在、高松宮杯は高松宮記念としてG1に昇格し、距離も2000mから1200mに変わってしまっている。
つまり、この中日新聞杯1着条件というのは「12月の鳴尾記念」「約2年7か月ぶりに勝てた中京2000mの高松宮杯」をまとめて表現できるレースだったのである。現在と当時で日程や距離、グレードまで変わり、さらに3年と限られた育成シナリオのなかでナイスネイチャの史実を表現するにはコレがベストだったといえよう。
ゲームで中日新聞杯を勝ったナイスネイチャは「長かったなあ...」と勝利を噛みしめる。松永騎手が「負けても負けても応援してくださったファンの皆さんを思うとホッとした」とコメントした高松宮杯での気持ちが表現されたシーンだろう。
シナリオの最後、有馬記念の勝利――史実では5年連続出走しているナイスネイチャにとって悲願のレースで勝たせてあげるのは、トレーナーである「あなた」である。
(公営競技ライター 佐藤永記)