「コロナ禍」という言葉の危うさ
一橋大の石居人也さんは「『衛生』と『自治』が交わる場所でー『コロナ禍』なるものの歴史を考える」という論文で、「コロナ禍」という言葉の意味作用について問題を提起した。
石居さんは、「現在を起点に過去を歴史的に問い、歴史を起点に現在をとらえなおす試み」として、近代日本のコレラ対策やハンセン病者の隔離政策をたどりながら、「衛生」という概念がどう日本に定着したのかを振り返る。
近代日本では「感染しない」ことに加え、「感染させない」ことが求められ、やがて「感染させられる」ことへの恐れと一体となって「衛生」が規範として力をもつようになった。この「衛生」には「自治」と「警察」という二項対立の構図があらわれ、あからさまな強権性への忌避が、自発性・能動性の発露へと結びつく回路が開かれた。
そうした考察の上で石居さんは、「コロナ禍」という言葉がもつ意味作用の危うさを指摘する。
「コロナ禍」は、コロナを、あらゆる人の前に立ち現れた一律の危機としてみせる力がある。だがコロナの受け止め方や意味は、人によって状況によって違う。「コロナ」にしても、「ステイ・ホーム」にしても、それぞれ個人にとって意味するものには、途方もない隔たりがある。
だが得体の知れない病を「わたしたち」の「禍」ととらえることは、それに罹患した人や関係者をも、「わたしたち」の範疇から排する心性の喚起につながらないだろうか。
あるいは繰り返し要請された「自粛」は、最終的には個々人の心構えの問題であり、リスク覚悟で別の行動をとる選択肢を排除するものではなかったはずだが、「わたしたち」に「感染させる」リスクを伴う行動をとる人々には、私的制裁が加えられたりもした。「コロナ禍」という言葉は、自己決定を許容しない危機との向き合い方を体現し、それを現実のものにしてはいないだろうか。
石居さんは、そう問題を投げかけ、次のようにいう。
「本来『自治』の範疇にあるはずの『自粛』が、相互監視の対象となり、『警察』の語と結びついた『自粛警察』は、『自治』に内包された陥穽を端的にいいあらわしているように思う」
三枝さんは、この論文について、「私も『コロナ禍』という言葉を安易に使ってしまうが、コロナの『わざわい』が意味するものは人によってまったく違う。『コロナ禍』という言葉を使うことによって、そうした違いを見落とす危うさを教えられた。これを読んでから、『コロナ禍』という言葉を使う時は、括弧でくくるようになりました」という。
私も、この連載などで、安易に「コロナ禍」という言葉を使ってきたが、石居さんの問題提起に目が醒めるような思いがした。言葉には、何事かを指し示す働きがあるかのように見えながら、単純化によって内実の多様性や豊かさを隠し、一定の方向に強く誘導する力がある。それが「クリシェ(決まり文句)」がもつ怖さだろう。