ステイヤー・マックイーンには余裕の勝利だった?
天皇賞(春)の父子3代制覇などから、メジロマックイーンがメジロの誇るステイヤーの最高傑作とも言える点はご存知の方も多いと思われる。
ただ、逆に言えば生粋のステイヤーにとって2200mは短い距離だといっていい。とはいえ1991年、5歳時に2000mの天皇賞(秋)を1着入線(進路妨害の判定で18着降着)していたり、産経大阪杯(当時G2・現大阪杯G1)を勝っていたりするなど、こなせないわけではなかった。
4歳時の宝塚記念はライアンの2着。パーマーが制した5歳時の宝塚記念は左前脚種子骨の骨折で休養だったため出走していない。6歳で復帰し産経大阪杯を勝ち、そしてあのライスシャワーにマークされ阻止された天皇賞(春)を経て、1993年の宝塚記念を迎えたのである。
レースは前年覇者で前年末の有馬記念も制したグランプリ連勝のメジロパーマーが逃げる。ペースは1コーナー過ぎまで上がりっぱなしで前年よりもペースが上がったものの、上げすぎたと判断したのか2コーナーから一気にハロンラップが13秒台に落ちる。これでパーマーは気が抜けたのか3コーナー前にはオースミロッチに捕まり、さらにその後ろにいたマックイーンもパーマーを4コーナー前には捕える。そして直線に入りオースミロッチを捕まえて先頭に立った。道中最後方だった鉄の女・イクノディクタスが追い込むもゴール直前の勢いは変わらず、1馬身3/4先着して優勝した。
ゴールを過ぎても「まだ距離は保ちますけど?」と言っていそうにも見える完勝であった。こうして、メジロの宝塚3連覇となったのである。