「自己有用感」
コロナ禍で仕事やバイト先が閉店・休業になったり、パートの仕事の回数を減らされたりした人は、ただちに経済的な問題に直面する。実質無利子無担保の融資で当座をしのいでも、この先、いつまで返済を迫られるかどうかも定かでない。そうした人に比べ、休業補償を受けられる人は、まだ恵まれているだろう。だが、そういう人も、別の問題を突きつけられる可能性がある、と香山さんはいう。
それは「自己有用感」の喪失だ。
勤め先が休みになっても、給与はある程度補償される。忙しい時には、願ってもない待遇のように思えるかもしれない。では、一日中家にいて、何をするか。普段は出来ない断捨離や書類・衣服の整理をする人がいるかもしれない。細々とした時間では取り組めなかった読書や勉強に挑戦する人がいるかもしれない。だが、長くは打ち込めない。在宅で独りで楽しめる趣味も、そう多くはない。
そのうち、仕事もしないのに金をもらえる自分について考え始め、「自分は、要らなかったのではないか」と感じるようになる。これが「自己有用感」の劣化と喪失のプロセスだ。香山さんは言う。
「オンライン授業や診療所での精神科臨床という形で仕事を続けてきた私も、家にいてテレビでコロナ最前線で働く医療従事者の映像を見ていると、『同じ医者なのに、こんなことをしていて、いいんだろうか』と考え込んでしまいました。つまり、普段は外出したり、おいしいものを食べたり、旅に出たりといった気分転換で紛れていたことを、突きつけられる。自分は何のために存在し、社会のために何をしているのか、という本質的な問題を突きつけられ、とことん悩む。実際に、そうした悩みを抱える女性たちを何人も診てきました」
香山さんによると、こうした悩みを訴える人は女性に多いという。
「男性には、肩書や収入で他人と自分を比べ、『これでいいんだ』と肯定的にアイデンティティを確認する人が多い。それに比べ、女性は、外面的な属性や収入ではなく、ふだんから自分とは何か、『自分探し』をする人が多いように思う。コロナ禍で本質的な問題が露呈すると、それを突き詰めてしまいがちです」
コロナ禍以前なら、「生きる意味がわからない」と患者さんが言えば、香山さんは「生きる意味って、私にもわからない」と返して、こう続けた。
「生きる意味は、マルチ商法で儲けを企む人や、怪しげな信仰宗教に勧誘する人が口にするけど、そんな意味が分かる人なんて、ほとんどいないと思う」
そんな時は、人と会ったり、ショッピングに出かけたり、気晴らしで紛らわせるよう勧めた。だが、休業要請で店は閉まり、午後8時には家に帰る毎日が続く。
「度重なる緊急事態宣言でも、多くの人は驚くほど従順で、発散もせず、文句も言わず、怒ることなくいうことを聞いて、自分を責めている。見ていて辛くなります」
香山さんはここで、テニスの大坂なおみ選手に言及した。精神的な負担を理由に記者会見を拒否した大阪選手は5月31日、自身のツイッターで全仏オープンの棄権を表明し、うつであることを告白した。香山さんはインタビューの2日前にツイッターで、その立場に理解を示して擁護し、ネット上で様々な波紋を広げていた。
大坂選手は、こう投稿した。
「本当のことを言うと、私は2018年の全米オープン以降、長い間うつ病に苦しんでいて、このことと付き合っていくのに本当に苦労してきた。私のことを知っている人なら誰でも、私が内向的であることは分かっていると思うし、大会で私を見たことがある人なら誰でも、私がよくヘッドホンをつけて社交不安症をやわらげようとしている姿に気がついていると思う」
これについて、香山さんはこう書いた。
「大坂なおみ選手の件。ネット社会とくにSNSが普及してから、会見での発言はすぐに世界の津々浦々に広がり、面識ない人たちの口端に上り(このツイートも)、テニスとは無関係な誹謗中傷も直接本人に送られる。その中でメンタルヘルスを保つのは至難のわざだ。あらゆるメディアから切断されゆっくりして」
香山さんがこうした投稿をしたのは、大坂選手の姿が、これまでコロナ禍で相談を受けてきた女性たちの姿と重なったからだという。
「世界のトップクラスになったら、単純に、『俺ってすごい』、と天狗になってもおかしくない。でも大坂選手は、そうなっても真面目に自分と向き合い、本質的なものを探し続けているのだと思う。SNSは、自分の世界を広げ、他人の優れた面を知る側面もありますが、他人と比較して落ち込んだり、理不尽な非難や中傷にさらされたり、精神的なストレスにつながるというマイナス面も増えています」