「弱者保護」ではなく「皆が弱者なのだから支え合うしかない」
―― 著書では論点が多岐にわたっています。最も強調したい部分はどこですか。サブタイトルにもあるような「支え合う」社会についてでしょうか。20年5月の記者会見では、「支え合う社会へ」と題した構想も発表しています。
枝野: 150年間続いてきた規格大量生産による物的拡大の時代は終わったんだ、ということですね。「だからどうするんだ」という話で、(今の政府が進めている政策は)その前提が違っています。前提が違う以上、その後の具体的な政策に関する部分は一種必然的に出てくるものです。その時代状況の変化を受け入れられるのか、あるいは共有できるのかどうかがポイントです。明治維新からの150年が2000年代前半くらいのところで終わって、完全に違うフェーズに入っているというのが一番のポイントです。
―― 「支え合う社会」や、正しい意味での「情けは人のためならず」といった言葉が多数登場します。再分配の重要性が繰り返し強調されていますが、「弱者」や「高齢者」「子育て世代」への予算措置を行うとなると、受け止め方によっては世代や所得による分断を生んだり、世代間闘争のような受け止めをしたりする人もいそうです。
枝野: 具体論のところで今回伝えたかったのは、今やろうとしているのが「弱者保護」ではない、というところです。特定の弱者をカテゴライズして、その人たちをなんとかするのではなくて、皆が弱者なのだから皆で支え合うしかないという話ですね。
―― 年を重ねて定年退職した後は、貯金を取り崩しながら年金暮らしをすることが想定されますが、いつまで資金がもつのか、いつまで生きていていいのか...そういった悩みを抱える、一種の「弱者」になる可能性は誰にでもありますね。
枝野: 例えば一流企業で定年まで働き退職金をもらい、そこそこの額の厚生年金を受給し、ローンを完済している人たちでも、医療や介護の不安は大きく、10年とか15年にわたって要介護状態になれば、生活がめちゃくちゃになります。それから、例えばダブルインカムで1000万円ずつくらいもらっている夫婦でも、生殖補助医療や保育園・保育所の問題など、子育て支援策が充実していないと選択肢を狭められるわけです。従来の「支え合い」や古典的な社民的政策では、ものすごく困っている人をカテゴライズして「その人を助けよう」なのですが、(今は)かつて助ける側に回る側だったと思われる人たちが助けを求めている。あなたも含めて強者ではない、ということです。多分、自分が強者でないことは認めたくないから、それを自覚しているかは別ですけど、本能的には、みんな感じているんですよ。だから、弱者保護に対して否定的になり、生活保護バッシングにつながっていきます。なので、とにかく「弱者保護」ではないということを強調したかったです。