「自由」を得て逃げまくった1998年
最後の転機は香港競馬から招待馬として選出され、香港国際カップに出走した1997年の香港遠征である。上村から主戦を引き継いでいた河内騎手は別のレースが決まっていたため、鞍上となったのが、武豊騎手だ。
武ジョッキーはサイレンススズカに「完全に自由に」走らせる選択をとった。1800mのレースだったが、1000m通過が58秒2という時計で逃げ、結果5着に敗れたものの「抑えず競馬したほうがいい」という確信を得たのである。そもそも生まれもデビューも遅めで小柄だった馬、古馬となって完成する可能性を秘めていた。スズカの成長と、時間をかけたスタッフの理解があって、翌年からスズカの快進撃が始まるのである。
1998年のスズカは気持ち良いくらいに逃げ、勝ちまくった。1800-2200mのレースに条件を定めて破竹の6連勝。連勝の始まりのバレンタインSですでに後続を10馬身離して逃げ、2着と0.7秒差をつけて圧勝してからは一切の「我慢」をやめた。解き放たれたスズカに敵はいなかったのである。
そしてやはり、ウマ娘のシナリオにも含まれる伝説の金鯱賞に触れないわけにはいかない。単勝は最終オッズ2.0倍であったが、2倍つくのかつかないのか、普段2倍の単勝なんて買わない私もドキドキしながらなけなしのお金で単勝を買っていた。
レースでスズカは鞍上の武騎手が手綱を動かすことなくすんなり先頭を走ると、伸び伸びと前に進み続け、手綱を持ったまま道中の時点で後続に大差をつけて逃げ、そのままムチ一つ入れず大差のまま逃げ切った。1頭だけ違う次元でレースをしていたという表現がぴったりなのではなかろうか。
もはや自由を手に入れたスズカと、寄り添えた関係者にとって騎手が替わることに問題はなかったのかもしれない。宝塚記念は武騎手ではなく南井克巳騎手となった。これは本来宝塚記念を目指していなかったスズカ陣営がファン投票選出もあって出走を後から決めた影響で、武豊騎手はエアグルーヴ騎乗の先約があったためである。
「どちらもいい馬で、どちらか回避してくれないかと思った」と武豊騎手が後に語るほど悩ましい選択だっただろう。そして、スズカは毎日王冠、運命の天皇賞(秋)へと歩を進めた。