外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(40)哲学者スラヴォイ・ジジェク氏と考えるパンデミックの意味

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コロナで変わった世界観

   私の最後の質問は、このコロナ禍を通して、ジジェク氏の世界観や哲学にどのような変化が起きたのか、というものだった。

「今回のコロナ禍を通して、欧米の多くの友人は私に、人類は傲岸に過ぎた、と語った。我々人間は、自然よりも一段上に格上げされた特別な存在だとする考えを改め、多くの種の一つにすぎないことを自覚し、もっと攻撃的ではなく、謙虚であるべきだ、と。もちろん私も同意する。だが、同時に我々は環境や生態をコントロールしてきたし、ユニバーサルな存在として、環境や生態の危機に連帯して立ち向かう責任があるとも思う。われわれが地球の全植物、全動物とつながっており、その一員として、地球の全生命を生きながらえさせる責任がある。より控えめであると同時に、主人のようにではなく、全宇宙のケアテーカーとして仕えるべきなのだ」

   哲学者としてジジェク氏がこの間最も考えたのは、「生きることの意味」をめぐる混乱だった、という。ジジェク氏の言葉を借りれば「欲望の能力」とは何か、という問題だ。

「かつては単純に、我々がこれを望み、権威はこれを禁止する、と言えた。だがパンデミックも2年目に入り、人々は楽しみや欲望のためではなく、抑うつのために、旅に出たり、イベントに参加したいと思ったりしているのではないか、と薄々気づき始めている。これは内的世界の秩序づけができなくなったということだ。つまり、欲望を禁じられているのではなく、本当は何をしたいのかわからず、混乱している。やりたいができないのではなく、自分が何をしたいのか、わからない。ある哲学者は、より多くの欲望を持つべきだと言うが、私はそうではないと思う。自発的に個人として、社会として『生きることの意味』を再定義し、ニュー・ノーマリティ(新しい常態)を作り直さねばならない」

   コロナ禍での近況を尋ねると、ジジェク氏は笑顔に戻ってこう言った。

「シンポジウムも講演も会合も、何から何までキャンセルになった。だが悪いことばかりではない。わざわざニューヨークに行かなくても、リュブリャナの自宅からZOOMで会合に参加できる。それだと1、2時間しかかからない。もっと多くの時間を執筆や読書にあてることができる」

   そう言ったあと、ジジェク氏は「だが、ここにもパラドクスはある」と言って、うんざりした表情をつくってみせた。

「それは『孤独』がないことだ。ニューヨークや東京のような大都市なら、自宅から一歩出て繁華な大通りに出れば人は孤独になれる。だがこの町ではそんなにぎやかな雑踏がない。それに、家にいると、メールやZOOMの集中砲火を受ける。まるで爆撃だ。先日も見知らない男から、『死にたいが、どうしたらよいか』という10ページのメールが届いた。この集中砲火には、正直、参っているよ」

   時間ができたおかげで、ジジェク氏は昔の映画を見直す暇ができたという。

「黒澤明や溝口健二の作品をもう一度見ている。溝口の『山椒大夫』は私の一番のお気に入りだ。パンデミックのために日本の名作映画を再発見できたのはありがたい」

   ジジェク氏に、このコラムの前の回で、斎藤幸平さんのことをご紹介したことを話した。

   ジジェク氏は、斎藤氏の英文著作「大洪水の前に(邦題)」について、何度か書評を書いていたからだ。さらに斎藤氏はジジェク氏の近著「パンデミック」邦訳の監修・解説も担当している。斎藤氏のことに話を向けると、ジジェク氏はこう話した。

「斎藤氏には、敬服している。後期マルクスが生態学的バランスを重視していたという指摘には説得力がある。ただ、すべての点で同意しているわけではない。彼は資本主義によって、人間と自然の関係性が破壊されたと強調するが、私は人類はもっと以前から、自然と対立してきたと考える。私が本格的に著作を読む日本人の思想家は、斎藤氏と柄谷行人氏の二人だ。柄谷氏は階級社会のもっと以前、人類が狩猟社会から農耕社会に移行し、定住を始めた時期から、その対立が始まったとみている。私もその考えに近い。それにしても、日本では欧米が後期マルクス研究の重要性を再認識するずっと前、1960年代からそのことに気づいていたのだと思う」
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