スラヴォイ・ジジェクという名前の哲学者をご存じだろうか。スロベニア出身・在住で、日本でも多くの著書が翻訳されている。今回のコロナ禍のさなかに書いたエッセイが「パンデミック」「パンデミック2」(Pヴァイン社発行)として出版された。前者の本の帯には「『最も危険な哲学者』による緊急提言!」というコピーが書かれている。これまで2度取材したことのあるジジェク氏に、ZOOMで話をうかがった。
冷戦時代、東西両陣営の境界線上の国
スロベニアは、旧ユーゴスラビアに属した国の一つだ。面積約2万平方キロメートルは岐阜のほぼ2倍、人口約200万人は日本でいえば福島や栃木、岡山などに近い。
隣国イタリア側にある国境に近い町はトリエステだ。
1946年に英国首相のチャーチルは、米ミズーリ州フルトンで、歴史に残る「鉄のカーテン」演説を行った。彼が当時、共産圏と自由主義圏の境界として挙げたのは、「バルト海のシュテッティンから、アドリア海のトリエステまで」という地名だった。シュテッティンはポーランド語でシュチェチン。独との国境にあるポーランドの都市だ。
つまりスロベニアは冷戦時代、「鉄のカーテン」の向こう側にあるイタリアと対峙していた共産圏最前線の国だったことになる。
旧ユーゴスラビアは「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と呼ばれたように、異なる民族や宗教、言語が複雑に入り組む国だった。戦後は共産圏に属したものの、統一した指導者チトーの下で旧ソ連とは一歩距離を置く独自路線を取り、西側メディアからは「チトー主義」と呼ばれたこともあった。
冷戦崩壊後、その旧ユーゴが激震に襲われる。1991年、スロベニア、クロアチア、マケドニアが相次いで独立を宣言し、クロアチアではセルビア人勢力との間で内戦が勃発。さらにボスニア・ヘルツェゴビナにも戦線が拡大し、各民族・各宗教勢力が各地で血で血を洗う内戦に巻き込まれた。
西側諸国に近く、工業が発達していたスロベニアは、独立も早く、その後の内戦でも、大きな被害を受けることはなかった。だが、同じ連邦の一員だった国として、国家の解体を間近に目撃したという点では、西側とは大きく異なる。
あらかじめ、こうした小史を振り返ったのは、ジジェクという思想家が、スロベニアという独自の歴史風土を背負っていると考えるからだ。
つまり、社会主義国の時代も、イタリアとの往来は比較的自由で、西側諸国の商品や情報が入る土地柄だった。その意味では、社会主義圏の中でも「異端」に近かったろう。だが西側に近かった分だけ、いたずらな「幻想」は持たず、冷戦崩壊後に旧ソ連や東欧社会が急速に資本主義化したような道はたどらなかった。この点でも、スロベニアは、急旋回した社会主義圏の中では「異端」ともいえる存在だった。
つまりスロベニアは冷戦時代、二つの異質な体制の境界線上に位置し、両方の社会体制からは相対的な距離を保つ「辺境」だったのであり、それは冷戦崩壊後もあまりブレることがなかった、といえる。
後で見るように、ジジェク氏の思想は難解だが、その理論を使った映画批評や文明批評はきわめてわかりやすく、しかも修辞は華麗だ。つまり彼の批評が多くの国、多くの言語で読まれるのは、「境界線の思考」に発するレトリックを駆使して、体制やイデオロギーをやすやすと超えて人々に届く表現力に満ちているからだろう。
私は2005年末と2008年末、当時在籍していた新聞社の取材で、首都リュブリャナに住むジジェク氏に長時間にわたってインタビューをしたことがある。
驚いたのは、ジジェク氏が、写真などで想像していたイメージをすっかり裏切るような人柄だったことだ。写真が醸すイメージは、取っつきにくく、カール・マルクスのように、いかつく圧迫感がある。だが、口を開けばその饒舌はとどまることを知らず、ユーモアや皮肉を交えて最新のポップ・カルチャーや世界の流行に及ぶ。マシンガンのようにオタク的な雑学と古典の知識が速射され、いずれのインタビューも、あっという間に数時間が過ぎていた。
今回のコロナ禍についてジジェク氏の考えをご紹介する前に、二つのインタビューの抄録を書きとどめておきたい。ジジェク氏の思想の持続性と、今回のパンデミックがもたらした衝撃を、理解していただくご参考になると思うからだ。