外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(39)斎藤幸平さんに聞くコロナと「人新世の『資本論』」

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「21世紀のマルクス」が論じたであろう内容とは

   「共産党宣言」の中でマルクスは、資本主義の下で生産力が発展し、更なる生産力の発展が労働者階級の解放のための条件を準備すると考えた、といわれてきた。いわゆる「生産力至上主義」であり、そのことをもって20世紀後半に、彼の思想にはエコロジカルな要素がないとみなされ、環境運動から批判されてきた。生産力の発展が人間による自然の支配を可能にし、それが人類の解放につながるのなら、生産力の増強こそが環境危機をもたらしているという事実を過少評価してしまう、という理由からだ。

   だが、それは後期マルクスの苦闘を無視した単純化だ、と斎藤さんはいう。人間は絶えず自然に働きかけ、自然の循環過程を通して生を営む。人間もまた、自然の一部として、エコロジカルな「自然的物質代謝」のもとで生きざるをえない。だが、資本は自らの価値を最優先にするため、価値増殖という目的に見合った形で「人間と自然の物質代謝」を変えていく。資本は人間も自然も徹底的に利用し、自然や資源を収奪する。その結果、人々の生活は豊かになるが、ある一定の水準を超えると、資本は人間と自然の物質代謝を大きく攪乱し、ついには自然のサイクルと相いれなくなり、「修復不可能な亀裂」を生むまでになる。

   それが、斎藤さんのいう「人新世の資本論」のあらましだ。

   「MEGA」プロジェクトによって、晩期のマルクスは共同体研究とともに、地質学、植物学、化学、鉱物学など自然科学を徹底的に研究し、エコロジカルなテーマを資本主義の矛盾として扱うようになったことが明らかになった。斎藤さんは、その過程に焦点をあてた論文(邦訳「大洪水の前にマルクスと惑星の物質代謝」、堀之内出版)を書き、歴代最年少で「ドイッチャー記念賞」を受賞した。

   こうした実証研究を踏まえて斎藤さんは、「人新世」の著作ではさらにテーマを現代社会への考察にまで広げた。

   価値増殖を目指す資本主義は絶えず「外部性」を作り出し、そこに負担を転嫁することが常態化する。先進諸国は、豊かな生活を維持するために、グローバル化によって被害を受ける「グローバル・サウス」から収奪し、自らの生活の代償を押し付ける。彼らの生活の悪化は、現代の資本主義の前提条件になっている。だが、被害を受ける「グローバル・サウス」も、自らの健康や自然が破壊されるのを知りながら、生きていくために、その収奪を受け入れるほかない。

   資本主義のグローバル化が地球の隅々にまで及べば、新たな収奪の対象となる「フロンティア」が消滅する。利潤獲得のプロセスが限界に達し、利潤率は低下し、資本蓄積は困難になり、経済成長は鈍くなる。だが資本主義による収奪は人間の労働力だけでなく、地球環境そのものに向かう。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた掠奪の対象とみなす。斎藤さんはこう書いている。

「そして、そのような社会システムが、無限の経済成長を目指せば、地球環境が危機的状況に陥るのは、いわば当然の帰結なのである」

   斎藤さんは、人類がこれまでに使用した化石燃料の約半分が、冷戦が終結した1989年以降だという厳粛なデータを読者に突きつける。

   環境問題はしばしば、「ゆでガエル」にたとえられる。だんだん温まる湯の中にいるカエルは、逃げる機会を失い、ついにはゆで上がって死ぬ。変化が漸増して目につかないまま、私たちは危機に気づかずにいることを警告するたとえだ。だが、そのたとえは楽観的過ぎるだろう。私たちの資源の大量消費は、人類がかつて経験したことのないレベルに達しており、それはブレーキが利かなくなった「暴走」に近い。私たちは「環境に配慮」していれば済む時代に生きてはいない。21世紀は、私たちの「暴走」が地球環境にとてつもない負荷をかけ、それが避けようのない「危機」となって確実に降りかかる時代なのだ。

   斎藤さんの著作がいま注目されるのは、その逃れようのない危機を、初めて私たちの眼前に突きつけたからだろう。

   では、「ポスト資本主義」のビジョンはどのようなものか。それは直接、斎藤さんに語っていただくとしよう。

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