外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(38)坂東眞理子さんと考える「男女格差」

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日本の格差解消への道のり

   坂東さんに話をうかがう前に、男女平等に向けた日本の歩みをざっと振り返っておきたい。その歩みが、坂東さんのお仕事にほぼ重なっているため、理解しやすくなると思うからだ。

   戦後の男女格差是正の歩みには、大きな節目が二つあったと思う。一つは1985年の男女雇用機会均等法の制定であり、二つ目は1999年の男女共同参画社会法の制定だ。前者は雇用・労働面における男女平等を目指し、後者はより広範に、男女の格差のない社会づくりを目標にした。

   その最初の節目を、私は学芸部家庭面の記者として、肌に感じながら取材する機会があった。私は新潟、横浜支局を経て1983年8月から、87年6月に社会部に移るまで、当時の学芸部家庭班に在籍した。

   当時の学芸部は、文化・娯楽・家庭の3班に分かれ、新入りはまず家庭面で仕事をし、やがて娯楽・文化へと移るのが一般的だった。ちなみに学芸は連載漫画、連載小説、囲碁将棋も担当しており、間口は広い。

   だが当時はまだ世間や取材相手にも「序列」意識が強く、文化・娯楽・家庭の順に「格式」が高いとされていた。ある映画監督・作家の方に家庭面の記者が取材をしに行ったところ、「馬鹿にしているのか」と断られたという逸話が伝わっていたほどだ。

   つまり、誤解を恐れずにいえば、当時は家庭班がまだ「大人」ではなく、「女こども」を相手に取材している記者集団とみなされていた。社内にあっては学芸・科学・運動3部は「バルカン3部」という異称で呼ばれ、「小さいが、対策を誤れば民族独立運動の火種になる」と冗談交じりに語られることもあった。

   私は政治・経済・社会といった部には興味がなく、もっぱら「暮らし」に根差した取材こそ新聞の原点と思い、取材に遣り甲斐も感じていた。家庭面は、新聞社には例外的な場所で、もともと記者クラブに属さない。全く手掛かりのないところから、企画を立ち上げ、記事にする。社会を黒や赤、青で色分けして世相を探る「街のパレット」や、若い男性記者が家事に挑戦する「キホンノキ」、子どもの素朴な質問を専門家にぶつけて紙面で紹介する特集など、料理や育児、健康問題など、暮らし全般を手掛ける「第2社会部」のような趣があった。

   ところが、その家庭面が1985年、大きな紙面改革の焦点になった。きっかけは男女雇用機会均等法の制定だ。それまで「専業主婦」を主たる潜在読者として想定していた紙面が、時代にそぐわなくなったことに、新聞社も遅ればせながら気づくことになった。

   そもそも、「家庭」面を「女子ども」の紙面とみなすこと自体が思い上がりであり、差別や偏見の温床ではなかったのか。政治・経済・社会と切り離して「家庭面」をつくることは、男女の性別による格差や社会的な役割を固定化し、再生産することではなかったのか。家庭班では数か月にわたって激論を続け、それまでの紙面を倍増して教育、医療、労働問題などを幅広く扱うようになった。つまり、「家庭=女性、社会=男性」という役割分担を改め、女性も男性も共に暮らし、生きる場として、「家庭」を再定義する宣言だった。当然、それまでは視界の辺縁にあった「働く女性」や「シングル」、「主夫」も、専業主婦のテーマと並んで中心に据えられた。

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