外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(37)日本はなぜIT化に遅れてしまったのか 服部桂さんと考える

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「権威」に対抗するパソコン

   ベトナム反戦運動が全米を席捲した1960年代に、若者たちはロックとドラッグで親世代の世界に抗するカウンター・カルチャー(対抗文化)を生み出した。

   服部さんは、その代表的な論者であるスチュアート・ブランドが1968年に雑誌「ホール・アース・カタログ」を出し、ドロップアウトしたヒッピーたちの生活を地球規模の意識で目覚めさせる時代のバイブルとなった、という。彼の思想は多くの若者に深い影響を与えたが、コンピューターもその例外ではなかった。

   服部さんによると、スチュアート・ブランドは、「すべてヒッピーのおかげ」というエッセイの中で「カウンター・カルチャーが中央の権威に対して持つ軽蔑が、リーダーのいないインターネットばかりか、すべてのパーソナル・コンピューター革命の哲学的な基礎となった」と書いている。

   コンピューターはそれまで、大企業や軍のための中央制御の大型コンピューターだった。いわば中央集権的で官僚的な「権威」の象徴であり、その周縁に何も持たない「個人」がいるという構図だ。その「権威」としてのコンピューターに、若者たちが反抗の烽火をあげたのである。

   徴兵制で若者たちがベトナム戦争に送られた当時、反戦運動に身を投じたり、ロックやアート、ドラッグに走ったりする若者もいた一方、徴兵が免除されるという理由だけで、国防総省や大学などで戦争関連の業務や研究に従事する者もいた。そのため、体制や権力、大企業や官僚主義を支える象徴としての「大型コンピューター」に、批判的なまなざしを向ける研究者も少なくなく、学生が大学のコンピューターセンターを占拠するデモなども起きた。そうした中から、権威の独占物として人間を支配するのではなく、人間の能力を拡大するためのコンピューターを、という考えが生まれた。その象徴が、1968年にマウスの発明者でもあるダグラス・エンゲルバートが公開したON-LineSystem(NLS)だった。これはネットにつながる今のパソコンの原型ともいえるシステムだった。

   NLSが画期的だったのは、コンピューターが数字を処理する道具から、コミュニケーションや情報検索のツールに変えたことだ。さらに、たった一人の利用者が独占的に必要な情報を、インタラクティブに操作できるということだった。コンピューターが初めて、パーソナルな存在になったのだ。

   その後、パソコンは次々に改良を重ね、西海岸のガレージを作業場に出発したイノベーターらが、画期的な製品を送り出した。パソコンが普及し、パソコンの市場規模は大型コンピューターを凌駕する。90年代にはスピードが上がり、メモリーが増えた。

   最初は電話でつながっていたパソコンは、インターネットで相互に接続し、国境の壁や時差を超えて、世界に繋がるまでに進化した。もはやパソコンは計算機ではなく、メディアになった。やがては検索機能が加わり、パソコンは情報の海から即時に必要な情報にアクセスするツールにもなった。

   パソコンは仕事仲間、相談相手、遊び相手になり、ネットで他人とつながって様々な情報や知識を共有する道具になった。21世紀になって高性能スマートフォンが普及すると、かつては机、その後ラップトップに置いたコンピューターはさらに軽量化し、常時持ち運べる自分の「分身」になった。

   つまり、60年代の終わりから今に続く革新は、コンピューターを「計算を速く行うマシン」と考えた当初の発想を根底から崩し、「人間以外のものを使って人間を再現するテクノロジー」ととらえ直すことから始まった。

   服部さんは、米国が20世紀後半に見出したこのコンピューターの役割は、数百年単位で人間の在り方を変える「テクノロジー」の革命だという。

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