コンピューターの進化
コンピューターの黎明期にその原理を確立したのは英国の数学者アラン・チューリングだった。ケンブリッジ大学で学び、米プリンストン高等研究所で博士号を得た彼は、戦時中は暗号解読に従事し、ドイツのエニグマ暗号を読み解いて戦況に大きな影響を与えた。彼は、人間の基本的な論理思考法を抽象化して「チューリングマシン」として定式化した。これが、いまにつながるコンピューターの源流の一つになったといわれる。服部さんはこういう。
「チューリングは、人間の脳を真似る機械を作ろうと考えた。知を裏付けるソフトウエアを開発し、今でいう人工知能(AI)の原型を思い描いた。つまり、人間の再生としてのコンピューターです」
だがチューリングは、暗号解読という極秘の任務についていたため、その業績も十分には評価されず、不遇のうちに死んだ。
そしてチューリングが先駆けたはずのコンピューター技術が花開いたのは、欧州ではなく、米国だった。米国では戦時中から陸軍の弾道研究所がENIACという大型計算機の開発に着手し、ジョン・フォン・ノイマンらがチューリングマシンをさらに発展させてプログラム内蔵方式の「ノイマン型」を開発した。服部さんは、コンピューターが米国で進化したのは、アメリカには「死を否定する文化」があったからだろうという。
「キリスト教が主流のヨーロッパでは、死は避けられず肯定すべきものだった。人は死んで墓に入り、レガシーを残せばいいという考えだ。しかし欧州の宗教や文化を否定する人々が集まってできた米国では、生物としての限界を超え、死を延長するか否定する。つまり永遠の生命を希求するという新しい姿勢が生まれた。究極的にはコンピューターに脳をコピーすればいい、という発想です」
こうした前提から、アメリカでは長寿を目指す医療、人体の冷凍保存、精神として生き残るためのITといった「アンチ・死」の発想が生まれる。
アメリカには王も神もいないし階級社会もない。ところが、その代わりに米国は努力すればだれにでもなれる大統領を生み出し、死の代わりにコンピューターを生み出し、発展させた、と服部さんはいう。
こうしてマービン・ミンスキーとジョージ・マッカーシーは1959年、MITにコンピューター科学・人工知能研究所の前身を設立した。ENIACを発展させたIBMは大型コンピューターの7~8割のシェアを占め、世界の中でアメリカだけがコンピューター産業で突出するようになる。こうして電話はAT&T、コンピューターはIBMという寡占体制が生まれた。
当時のIBMは、米国内のライバル7社をものともせず、「白雪姫(IBM)と7人の小人」という例えさえ使われた。IBMの技術を購入するしかなかった日本の製造業に至っては、巨人(IBM)とモスキート(蚊)ほどの実力差があるといわれた。
風向きが変わったのは、通産省が1979年頃から構想を温めた「第5世代コンピュータ」の計画を進めたことだ。これは真空管、トランジスタ、集積回路、大規模集積回路と代を重ねたコンピューターを、人工知能に対応する新たなバージョンに切り替える国家プロジェクトで、1982年から10年をかけて進められた。だが、米国の人工知能学者エドワード・ファイゲンバウムらが注目したことから、このプロジェクトは米国の危機感を招き、そのころから日本への圧力が高まった。服部さんはその例として、1982年に起きたIBMスパイ事件を挙げる。日立製作所、三菱電機などの社員ら6人が、IBMに対し産業スパイを行ったとしてFBIのおとり捜査によって逮捕された事件だ。
当時のレーガン政権は、日独の台頭やベトナム戦争による疲弊で相対的に国力が衰えつつある中で、コンピューターと通信だけは突出した優位性を確保する方針を掲げていた。IBMが世界標準となっても、日本だけは富士通や日立が健闘し、IBMの首位を抜き去った。米国はそのころから知的所有権の重要性に気づき、鉾先を日本に向けて圧力を高めるようになった。その象徴がIBMスパイ事件だった、というのである。
だがこのIBM優位は、思わぬところから足元で崩れることになった。それは、西海岸を中心に、カウンター・カルチャーが生み出したパソコンの奔流だった。