「おしん」、2度もボツに 橋田さんが明かしていた「裏話」

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   大ヒットドラマ「おしん」の企画は2度もボツになっていた――2021年4月4日亡くなった脚本家の橋田壽賀子さんは生前、著書でそんな裏話を明かしていた。

   平均視聴率は52.6%。最高視聴率62.9%。テレビドラマ史上でダントツの記録をつくった国民的ドラマ。橋田さんの執念とこだわりがなかったら、そのまま「オクラ」になり、視聴者の目に触れることがなかったかもしれない。

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「こんな暗くて地味なドラマはダメ」

   1983年から1年間、NHKの連続テレビ小説として放映された「おしん」。苦難に負けず生きぬく薄幸な少女の物語は驚異的な反響を呼び、のちにアジアを中心に世界約70の国や地域でも放映された。

   橋田さんの著書『おしんの心』(小学館文庫、2013年)によると、直接のきっかけになったのは、明治生まれの女性からもらった長い手紙だった。そこには、米一俵で奉公に出され、その後、女郎に売られたが、なんとか逃げ出し、ミシンを習って自立したという苦難の半生が記されていた。

   この手紙をヒントに、明治・大正・昭和を生きた女性の生涯を紡ぐことで経済的な豊かさの意味を問うドラマを作ろうと思い立ち、さっそく大まかなストーリーを作った。

   最初に企画を持ち掛けた先はTBSだった。しかし、昼の帯ドラマの担当者はにべもなかった。「いまどき、こんな暗くて地味なドラマはダメですよ。時代遅れです」。

   あきらめきれずに、さらにNHKにも持ち込んだ。担当のプロデューサーはこう言った。「山形が舞台じゃねぇ。これぇ、ドラマにしても、雪のシーンばかりになって、色がない。話がね、第一、暗いし・・・」。

   それから約3年後。NHKから、「テレビ放送開始30周年の記念ドラマをつくりたい」という話が持ち込まれた。そこで改めて同じ企画を出して、ようやく日の目を見たというのだ。

脳裏に刻んでいた「名場面」

   「おしん」と橋田さんの深い結びつきは、実は昭和20(1945)年10月までさかのぼる。橋田さんは戦後の食糧難で東京生活に見切りをつけ、伯母が疎開していた山形でしばらく暮らした。そこで伯母が身を寄せていた材木店のおばさんから、こんな話を聞いた。

「昔、このあたりの子供たちはずいぶんたくさん奉公へ行った。家族のあまりの貧しさを見かねて、支度金としてもらった船賃を親に渡してしまう。だから、うちで流すいかだに乗って、最上川を下ってほうぼうの奉公先に行った」(著書『渡る老後に鬼はなし』、朝日新聞出版、2016年)

   おしんが両親と別れ、いかだで奉公先に向かう名場面は、このときすでに橋田さんの脳裏にしっかりと刻まれていた。

   橋田さんは「おしん」に、大別して3つの思いを込めていた。

   一つは、「日本人はもうこれ以上、経済的に豊かにならなくてもいいのでは」。1973年のオイルショックあたりから、日本人が「身の丈」を超えた豊かさを追い求めるようになり、逆に「貧しくなっている」と痛感していた。「おしん」を通して本当の幸せや豊かさを問いかけたかった。

「戦争に協力した罰」

   もう一つは、「戦争責任」だ。橋田さんは戦前、筋金入りの軍国少女だった。同世代の多くがそうだったように。だから結果的に、戦争に協力したという負い目があった。庶民ひとりひとりにも「戦争責任」があると感じていた。

   それだけではない。女学校のころ、ひそかに手紙のやりとりをしていた男子校の生徒は、のちに学徒動員で特攻隊になり戦死している。悲報を聞いたとき、「一生、男を好きになるのはよそう」と覚悟した。

   自分の人生が戦争に翻弄されたからこそ、戦争の恐ろしさ、平和の尊さをドラマに託したい。そんな思いを「おしん」で貫いた。

   おしんの長男は戦死する。夫は軍の納入業者として戦争に協力したことを悔い、責任をとって自殺する。この設定は、「戦争に協力した罰」だったという。

   じっさい橋田さんは、自殺するおしんの夫にこう語らせている。

「私にとって死を選ぶことは、戦争に協力した人間として、当然受けなければならない報いです。たとえ、生きたとしても、罪を背負って一生歩くのは、死ぬことよりも、はるかに苦しいでしょう」

橋田さんの「密かな目論見」とは

   そして三つ目。橋田さんは『渡る老後』でこう記している。

「天皇陛下に同世代の女性がどのような思いでこの時代を生き抜いてきたか、見てほしいという密かな目論見がありました」

   果たして、見てもらえたのか――。

   「おしん」を放映していた1983年8月30日、天皇陛下(昭和天皇)は静養先の栃木県・那須御用邸で宮内庁記者団と会見した。記者から「おしん」の質問も出た。毎日、日経、産経などが翌日、その様子を報じている。

「『始終見ていますが、当時のそういうこと(女性の苦労)はあまり知らなかった』と苦笑された」(毎日新聞)
「当時の女性の苦労については大ざっぱにしか知らなかったが、ドラマを見て苦労を詳しく知ることができました」(産経新聞)
「当時の女性の苦労をよく思い出しました」(日経新聞)
「当時の女性の苦労を実感しました」(北海道新聞)

   各紙で多少ニュアンスが異なるが、見てもらえたことは確かだった。

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