脳裏に刻んでいた「名場面」
「おしん」と橋田さんの深い結びつきは、実は昭和20(1945)年10月までさかのぼる。橋田さんは戦後の食糧難で東京生活に見切りをつけ、伯母が疎開していた山形でしばらく暮らした。そこで伯母が身を寄せていた材木店のおばさんから、こんな話を聞いた。
「昔、このあたりの子供たちはずいぶんたくさん奉公へ行った。家族のあまりの貧しさを見かねて、支度金としてもらった船賃を親に渡してしまう。だから、うちで流すいかだに乗って、最上川を下ってほうぼうの奉公先に行った」(著書『渡る老後に鬼はなし』、朝日新聞出版、2016年)
おしんが両親と別れ、いかだで奉公先に向かう名場面は、このときすでに橋田さんの脳裏にしっかりと刻まれていた。
橋田さんは「おしん」に、大別して3つの思いを込めていた。
一つは、「日本人はもうこれ以上、経済的に豊かにならなくてもいいのでは」。1973年のオイルショックあたりから、日本人が「身の丈」を超えた豊かさを追い求めるようになり、逆に「貧しくなっている」と痛感していた。「おしん」を通して本当の幸せや豊かさを問いかけたかった。