橋田さんの名シナリオ「誕生の秘密」 実人生の体験、巧みに生かす

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   2021年4月4日に亡くなった脚本家の橋田壽賀子さんは、多くの視聴者から圧倒的に支持された「国民的な脚本家」だった。

   庶民の喜怒哀楽や嫉妬心、憎たらしさ、その対極にある優しさなどを知り尽くした絶妙のシナリオ作りはどうやって生まれたのか。橋田さんは折に触れ、その「秘密」を語っていた。

  • 橋田壽賀子さん『渡る老後に鬼はなし スッキリ旅立つ10の心得』(朝日新書)
    橋田壽賀子さん『渡る老後に鬼はなし スッキリ旅立つ10の心得』(朝日新書)
  • 橋田壽賀子さん『渡る老後に鬼はなし スッキリ旅立つ10の心得』(朝日新書)

「なにくそ」と思って生きてきた

   橋田さんは現・ソウルで生まれ育った。愛媛県から一旗揚げようと朝鮮に渡った父は土産物屋などを経営していた。橋田さんは、「一人娘の教育は日本で」という方針のもとに、小学校3年のときに母と2人で、大阪・堺市に移った。そこで待ち受けていたのは、ちょっとした「差別」だった。

   朝鮮から戻ってきた日本人なのに、「朝鮮人」と言われていじめられた。「取っ組み合いのけんかをして相手を負かし、転校しました」(産経新聞、2015年8月31日掲載のインタビュー)

   その後は、与謝野晶子が卒業した地元の名門、府立堺高等女学校を経て東京の日本女子大に進む。ここでも嫌な思いをした。同級生は「ごきげんよう」「ごめんあそばせ」が自然に口に出るお嬢様ばかり。

「日本女子大は、士族の子供が多いので、私は間違って入ったようなもの・・・戦前の日本は格差社会なので、華族や士族が偉い・・・差別や意地の悪い視線を感じながら『なにくそ』と思って生きてきた。そんな虐げられた者の意識や惨めな気持ちが、自然とホームドラマに生きたのかもしれません」(同上)
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