「今しかチャンスがない」 大学野球57歳のオールドルーキーは、「生涯フルスイング」で挑戦を続ける

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「授業を受けて帰ってくるだけの日々」 輝いて見えた同い年の球児

   1963年5月6日、岐阜県で生まれた加藤選手。小学4年生の頃、地域のスポーツ少年団で軟式野球を始めた。当時の憧れは、「V9」(1965-1973)時代の巨人。中でも、絶対的主砲として活躍していた王選手への思い入れは別格だった。

「親に連れて行ってもらった中日スタヂアム(現:ナゴヤ球場、かつての中日の一軍本拠地)で、王選手のホームランボールが取れないかと、スタンドでずっとグローブを構えて待っていました。でも、それは叶えられませんでしたね」

   中学に入ってもしばらく軟式野球を続けていたが、あるとき、野球を諦めることになる。言葉がスムーズに出てこない「吃音」の症状が原因だった。自ずと口数が減り、周囲とのコミュニケーションが取れなくなっていった。「野球自体は好きでした。ずっと続けたかったです」。当時14歳、辛い決断だった。

   中学卒業後は、県一番の進学校・岐阜県立岐阜高校に進学。硬式野球部は甲子園の準優勝経験があり、西武の黄金期を築いた名将・森祇晶氏を輩出した古豪だ。しかし、当時の学生生活を「家から電車で高校に通って、授業を受けて帰ってくるだけの日々でした」と振り返る。

   テレビ越しに、輝いて見えた高校球児がいる。同い年の左腕で、後に日本球界を代表する大投手になる工藤公康(現:福岡ソフトバンクホークス監督)さんだ。工藤さんは愛知県の名電高校(現:愛工大名電高校)在籍時の1981年に夏の甲子園に出場。2回戦の長崎西高戦ではノーヒットノーランを達成し、大会を沸かせた。

「後から気づいたことでしたが、誕生日も自分と一日違い(工藤さんは5月5日)。羨望の眼差しで見ていました。憧れでした」

   土のグラウンドに立つことなく、加藤青年の夏は過ぎて行った。

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