ラジオ番組の制作を通じ、東日本大震災の被災地となった宮城県・女川町の「いま」を伝えてきた「OnagawaFM」。2021年4月で前身の臨時災害放送局「女川さいがいFM」の設置から丸10年を迎えるとともに、「11年目」に突入する。
2021年3月19日、J-CASTニュースのインタビューに答えた「OnagawaFM」プロデューサーの大嶋智博さんは、「節目の10年で事業をやめようと思っていた」と語る。「存続の道」を選び、何が見えてきたのか。
パーソナリティーは「女川の人たち」
「みなさん、お元気ですか?人口6000の港町、宮城県女川町からお届けする『onagawa now!』」
毎週日曜日の23時、宮城県のAMラジオ局「TBCラジオ」をつけると、こんなフレーズがスピーカーから聞こえてくる。番組の名前は『佐藤敏郎のonagawa now! 大人のたまり場』(以下、onagawa now!)。東日本大震災で被災した女川町の人たちが、震災で得た経験や復興の歩みを町外のリスナーに発信していくトーク番組だ。
番組名にもなっているパーソナリティーの佐藤敏郎さんは、女川町で教師として長年勤務した経験を持つ。明るく爽やかな声が印象的だが、震災では当時12歳の次女が津波の犠牲になった。佐藤さんの他にも、子を持つ母親や地元企業の社長、20代の若者といった面々がラジオの「話し手」として登場する。共通するのは、どの人も「喋り」を生業にしていない、という点だ。
このスタイルの原型となったのは、2011年〜16年まで女川町に存在した臨時災害放送局「女川さいがいFM」(以下、さいがいFM)。11年4月、津波で甚大な被害を受けた町内において、町民の情報不足を解消することを目的に始まった。ラジオ局のパーソナリティー・スタッフに起用されたのは、避難所に集まった地元住民たちだった。
「避難所や仮設住宅に住んでいる方たちに対し、公平に情報を行き渡らせる手段はないか。住民に高齢の方が多かったこともあり、アナログな手段ではありますが『ラジオ』をやることが有用だと考えました」
ラジオ設立当時の記憶を、OnagawaFMプロデューサーを務める大嶋さんはこう語る。大嶋さんは長年、東京のメディア業界で働いてきた経験を持つ。「さいがいFM」の設立以降、機材の準備や運営ノウハウの指導などを担ってきた。
「マスメディアを通じて伝わる女川の情報は...」
当初は町内の情報環境整備が目的だった「さいがいFM」。だが、放送を続けていく中で「思わぬ副産物もあった」と大嶋さんは語る。震災後の女川町は、人口流出が深刻な問題となってきた。15年発表の国勢調査では、震災前の10年調査と比較して37%の人口が減少。これは、福島原発事故の影響で町の大部分が警戒区域に指定された福島県楢葉町に次ぐ、全国第2位の減少幅だった。
様々な事情を抱え、町を離れることになった住民。そんな人たちにとっても「さいがいFM」の存在は大きな意味を持った。
「マスメディアを通じて伝わる女川の情報は『大きな項目』がほとんど。『女川はこんな天気だよ』『復興はここまで進んでいるよ』といった細かい情報を知ってもらえるメディアがありませんでした」
「さいがいFM」では、インターネット上で番組を配信する「サイマル放送」やSNSなどを活用。そして13年には「さいがいFM」を舞台にしたNHKのテレビドラマ「ラジオ」が放送された。さいがいFMにスタッフとして参加した若者の姿を描いた作品で、同年度の文化庁芸術祭ではテレビ・ラジオ部門の大賞を受賞。現在も全国の教育機関で教材として使われている。
こうして、元住民やボランティアで女川を訪れる人、女川町に関心を持つ人たちの間で、局の存在が広まっていくこととなった。
「さいがいFM」閉局時には桑田佳祐がサプライズ訪問
そんなさいがいFMも、震災から5年を迎えた16年3月29日に役目を終える。全国からの寄付金を元にした運営体制を維持する難しさや、人材確保の難しさが背景にあった。放送終了間際の16年3月26日には、サザンオールスターズの桑田佳祐さんがサプライズで女川を訪問し、楽曲を披露した。その様子は「さいがいFM」でもサイマル配信され、話題を呼んだ。
放送局は幕を閉じたが、嬉しい話題もあった。かつて「さいがいFM」で女子高生アナウンサーとして活動していた阿部真奈さんは、17年4月に福島県のテレビ局に記者として就職。「さいがいFM」を通じて育まれたジャーナリズムが、東北のメディア業界に還元された。
女川発の地域メディアも、次のフェーズに移行した。「さいがいFM」で培われたノウハウを元に、女川町からの委託・協賛を受け、町の魅力や復興の現状を「外」へ伝えていく、という活動への転換だ。屋号も「OnagawaFM」に改めた。
16年4月からは、「さいがいFM」で放送されていた人気番組を引き継ぐ形で、 「onagawa now!」がTBCラジオでスタート。番組は全国のコミュニティFM各局でも放送され、女川の「今」を日本中に伝え続けている。
16年4月に発生した熊本地震の被災地には、閉局で不要になった機材を現地の臨時災害FMへ譲渡。熊本で「onagawa now!」の番組収録も行った。18年9月に発生した北海道胆振東部地震では、被害の大きかったむかわ町、厚真町にスタッフを派遣し、災害放送局開設のノウハウを伝えた。
「たとえ細々とでも、現地の言葉を伝え続ける」
そして2021年。前身の「さいがいFM」から数えて10年を迎えるが、大嶋さんは「節目の10年で事業をやめようと思っていた」と語る。
OnagawaFMは不動産事業や広告収入などで儲けがある大手メディアのように、安定したビジネスモデルを構築しているわけではない。そして、「復興のトップランナー」と言われた町の復興計画は19年に完了。壊滅した町が「普通の町」へと戻っていく中、復興の現状を伝える必要性はなくなったのではないかーー。そう、考えたという。
しかし、結果的には女川町からの「続けて欲しい」という強い要望もあり、事業は11年目に突入することになった。事業継続にあたって、大嶋さんはこんなことを感じたと話す。
「メディアとしての影響力は、在京のテレビ局などには全く及ばない。でも、OnagawaFMでは、女川の人たちが自分たちの言葉で、フィルターを通さず、直接、リスナーに向けて発信している。しかも、未だに何万という聴衆者がいて、我々のことを応援してくださっている」
「大手のメディアさんは、毎年『3.11』に合わせて集中的に情報を発信しています。ただ、我々が同じ時期に何かを発信したとしても、きっと埋もれてしまう。それでは『何をやっているんだろう』という徒労感が募るばかりです。たとえ細々とでも、現地の言葉を伝え続ける。それこそが、我々に課せられた役割なのだと思います」
「向いた方が前。たどり着いたところはスタートライン」
「震災10年」から3日後。21年3月14日の「onagawa now!」では、「女川復興調査隊 100人インタビュー」と題し、番組スタッフによる女川町民への聞き取り調査の様子が放送された。町民にぶつけたのは、こんな問いだった。
「町の復興状況をどう思うか。100点満点で点数をつけるとしたら?」
町民から返ってきた点数は「100点」「95点」「80〜90点」「80点」「40点」と様々だった。「ハード面での復興」に満足感を示す人が多かった一方で、「ソフト面では個人差がある」「(2月13日のような大きな地震が来ると)恐怖感や不安感が戻ってくる」「負の経験は抜けない」と、「心の復興」に課題を感じているという人もいた。
「自身の復興」は進んだかーー。番組中、ともに「さいがいFM」時代から放送に携わってきたスタッフの宮里彩佳さんに、こう問われた佐藤敏郎さん。次のように思いを語った。
「『後ろ向き(な状況)を乗り越える』なんて言葉も、私はあんまりピンとこなくて。向いている方が前なんだなって思うんですよ。人から見れば『あいつは暗いな』『後ろ向きだな』って言われるけど、それはその人にとっての『前』。だから、向いた方が前。たどり着いたところはスタートライン。そう考えると、復興の点数は、俺は100点なんだな」
4月から「onagawa now!」は「おながわ☆なう。~復幸ラジオ~」と番組名を改め、毎週土曜日18時30分へ枠を移動。メインパーソナリティーも「女川探検隊」と称した20代の若手メンバーに代わり、番組は新たなスタートを切ることになる。
被災地のメディアとして「老舗」の地位を築くまでになったOnagawa FM。一方で、「震災10年」は、ラジオを取り上げるために女川へ訪れる「東京のメディア」との関係性に苦慮した10年でもあった。(続編は28日公開予定)
(J-CASTニュース記者 佐藤庄之介)