莫大な予算、被災地に回してほしい
福島県郡山市でデイサービスの仕事に携わる作業療法士の作山裕美さん(28)は、東京五輪について「正直あまり楽しみではありません。(福島でも)やるんだ、という感じです」と語った。浪江町出身の作山さんは2011年3月11日の震災発生当時、高校を卒業して春休みだった。母、姉とともに仙台市へ向かう途中、宮城県名取市にあるショッピングセンターで被災した。津波の難を逃れ、仙台で勤務する父とも連絡がつき、浪江の実家に戻ったのが翌12日の深夜だった。
この日の午後、東京電力福島第一原子力発電所1号機で、原子炉建屋が水素爆発する。当時、姉が勤務先である地元の介護施設に詰めており、すぐには避難しなかった。「町からどんどん人がいなくなり、不気味な雰囲気でした。時間の経過とともに防災無線から避難を呼びかける放送が流れ、不安でいっぱいでした」。その後、姉は自衛隊により南相馬市に避難していることが分かったため、14日になって家族は福島市にある母の実家へ向かった。到着して間もなく、3号機原子炉建屋の水素爆発をニュースで知った。
避難先から、進学が決まっていた仙台の専門学校に通い始めた。父は勤務先が楢葉町に変わり、いわき市に単身赴任。その後福島市に一家の新しい家が建ち、生活拠点となった。浪江町は全域に避難指示が出され、帰れなかった。比較的放射線量が低減した「避難指示解除準備区域」と「居住制限区域」で日中の立ち入りが認められたのは、2013年4月だ。そんな生活を続けていた2013年9月、五輪・パラリンピックの東京開催が決まる。違和感があった。
「震災から2年しかたっていない時期に決めるのは、早すぎないかと。五輪には莫大な予算が投じられると聞き、『だったら甚大な被害を受けた岩手、宮城、福島にお金を回してほしい』と思いました」