当時のリーダーは今思う「満足できる復興は自分たちで勝ち取る」
それでも2人はボランティアで行政との交渉や住民の合意形成を積極的に担った。仙台市から当初提示された、利便性や地盤が悪い集団移転先について、交渉を重ねてより良い移転先を「勝ち取る」など、成果もあった。
「上の世代ではなく、『現役世代』の俺たちが引っ張っていかないとダメだ。子どもたちに安心で安全なふるさとを残すのが俺たちの責任だという思いでした」(末永さん)
震災から3~4年後の2014年から15年にかけて、荒浜の元住民の多くは相次いで集団移転した。住民の合意形成や移転先の造成などで復興が遅れた他の被災地よりも早期に住まいの復興を果たした。
前之濱さんも14年に2階建て4LDKの戸建て、末永さんも15年に2階建て5LDKの戸建てを、それぞれ荒浜から内陸へ6キロほど離れた住宅地に再建した。2人は言う。
「徒歩圏に地下鉄の駅やショッピングセンターなどもできて、とても便利で住み心地はいいです。あの時、頑張って市と交渉したことでいい移転先を確保できました。満足できる復興は自分たちで勝ち取らなければいけない――心からそう思います」
一方、元住民が移って無人となった荒浜の跡地。震災当日、多くの人が屋上に避難した荒浜小学校は震災遺構として保存されることになった。前之濱さんの自宅があった辺りには土が高く盛られ、「避難の丘」として将来の津波来襲時の避難場所となった。そのほかは依然、荒涼とした風景が広がるままの場所が多く、再開発の途上だ。
「荒浜に住んでいた人々がまたここに集まれるようにしたい」
そう思いついた末永さんは、集団移転の跡地を貸し出して活用してもらう仙台市の事業に友人と応募し、0.6ヘクタールの土地を一緒に借りて共同農園をつくることにした。2021年4月のオープンに向け、毎週末荒浜に通って開墾や井戸掘り、柵の設置など準備を進める。計46区画に分けて、荒浜の元住民らに果物や花を育ててもらおうと計画している。
バーベキューができる施設も併設し、「人々の憩いの場にしたい」という。
末永さんらの共同農園から700メートルほど内陸に入った場所には、3月18日にJR東日本グループの企業が手がけた観光農園がオープンする。
宮城県内では有数の白砂青松の海岸で、震災前は賑わった荒浜の海水浴場は依然「閉鎖」されたままだが、2019年までに3回、「海水浴イベント」が開かれた。20年は新型コロナウイルスの影響で実施されなかったが、仙台市観光課によると21年はコロナ禍の状況次第で再開するか検討したいという。
復興しても元通りにはならない。でも、震災から10年が経ち、荒浜にも新たな日常が築かれようとしている。