東日本大震災が発生した2011年3月11日、「200~300人の遺体を発見か」と最初に速報された仙台市若林区の荒浜地区。あれから10年、住んでいた人々は内陸への移転を果たし、何年も家の土台と生い茂る雑草ばかりだった場所も近年、ようやく活用されるようになった。
住む人はいなくなったが、それでも「新たな日常」が築かれつつ荒浜の今を、当時の住民のリーダーたちに語ってもらった。
再びサーファーの姿、「ずっと海は憎かった。けど、もういいかな」
南東の方角からうねって入る波が、急斜面の地形によって大きくせり上がる。仙台市若林区の荒浜はかつて、知る人ぞ知るサーフスポットだった。
東日本大震災から数年は足が遠のいていたサーファーたちが、近年ちらほらと戻ってくるようになった。その中に、かつて荒浜に暮らしていた会社員の前之濱博さん(55)と自営業の末永薫さん(54)の姿もあった。前之濱さんは言う。
「ここはたくさんの人の命を奪った場所。だから、ずっと海は憎かった。けど、『七回忌』も過ぎたんで『もういいかな』と思って戻ってきました」
2011年3月11日の夕方。「仙台市荒浜で200~300人の遺体を発見か」。テレビにそんな字幕速報が流れた。東北沿岸に押し寄せた巨大な津波の映像は繰り返し流されていたが、その時点では犠牲者はまだ数人確認された程度だった。この速報が「前兆」だったかのように、その後、犠牲者数は一挙に膨れ上がっていった。
東北随一の100万人都市・仙台市の沿岸部にある荒浜には震災当時、約740世帯2000人以上が暮らしていた。そこを最高9メートルの津波が襲い、当日周辺にいた人を含む186人が亡くなった。
震災から数ヶ月、仙台市は荒浜地区を含む沿岸部1213ヘクタールを住宅の新・増築ができない「災害危険区域」に指定した。つまり、「もう元の場所には住めない」と、元住民に"宣告"したのだ。市がシミュレーションした結果、海岸に防潮堤を建てるなど対策を施しても、東日本大震災級の津波が押し寄せたら人の命は守れない―そう結論づけた。
被災した沿岸部の元住民は内陸へ集団移転をすることになった。このうち荒浜の集団移転を率いたのが、当時40代半ばだった末永さんと前之濱さんだ。
集団移転では、移転先の土地を借りることはできるが、その上に建てる家は自己負担だ。被災した沿岸部の土地を自治体に買い取ってもらえるものの、被災して再開発の見込みが立たず、仙台市では地価は大きく下落。少なくとも1000万円以上はかかるという自己負担の重さを背景に、住民がまとまるのは容易ではなかった。
「なんで被災した俺たちがそんな金を払わなきゃいけないんだ」
「お前らは行政の言いなりじゃねぇか」
いらだつ住民に怒りを繰り返しぶつけられた末永さんは、「本当は、何度も嫌になって(元住民をまとめるのを)やめようと思った」と振り返る。