【特集】あの日から10年 東日本大震災は終わらない
多くの悲しみ、別れ、苦しみをもたらした東日本大震災が起きてから、きょう3月11日で10年となる。長い歳月を重ねてきたが、これが何かの区切りとなるわけではない。人々の営みは、これからも続いていく。
J-CASTニュースは毎年春に被災した土地を訪れ、現地の人と対話を重ねてきた。コロナ禍で迎えた今春も、あの日から歩みを進めてきた各地の「今」を見つめ、「未来」を考えてみたい。
注目度低かった千葉県旭市の被害
千葉県旭市飯岡地区。2011年3月11日午後、大きな津波が3回押し寄せた。特に17時26分の3度目は高さ最大7.6メートルを記録し、死者・行方不明者は16人に上った。
記者は2012年3月、この地を取材した。訪問当時、損壊した国民宿舎の建物が残っていた場所はその後「いいおか潮騒ホテル」となり、その一角に震災の被害を伝える「旭市防災資料館」が14年7月19日に開館した。9年前にインタビューした飯岡在住の仲條富夫さん(73)と、ここで待ち合せた。
「先日の地震、津波は大丈夫でしたか」
やって来た仲條さんに、まず問いかけた。2021年2月13日、福島県沖を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生した。東日本大震災の余震だ。首都圏各地も大きく揺れた。
「私は寝ていたのですが、すぐに防災無線が『津波の心配なし』と伝えてくれたので助かりました。震災以降、(津波には)ピリピリしていますから」
多くの犠牲者を出した10年前。仲條さん自身、一時は津波にのまれ九死に一生を得た。だが、岩手・宮城・福島の3県の被害があまりに甚大で、旭市への注目度は低かった。それでも「ここで家を失った人、亡くなった人がいる事実を知ってもらわないといけない」と、2011年8月には「語り部」の活動を開始。地元の高校生の防災訓練時に、実体験を生徒たちに話すことから始め、周囲の勧めもあって活動の場を広げていった。
総務省消防庁の「災害伝承10年プロジェクト」にも参加。2015年以降、愛媛県や長崎県、沖縄県を含め計13か所で講演してきた。地域住民、消防団員、自治体職員、町内会役員、消防署員と、場所によってさまざまな立場の人が仲條さんの言葉に耳を傾けた。19年の大分市の講演では、大ホールに600人ほどが集まった。
仲條さんが繰り返し訴えてきたのは、早めの避難だ。
「たとえ何事もなくても、『今回は避難訓練だ』と笑い飛ばせばいい。『大丈夫だろう』と自己判断してギリギリまで(家に)とどまった結果、被害にあっては遅いのです。最近の講演では、この話を必ずするようになりました」
「新たな生き方」のきっかけに
仲條さんの「災害伝承10年プロジェクト」の活動は、2020年2月9日の鳥取県境港市での講演が現時点では最後だ。この後、国内では新型コロナウイルスの感染が拡大し、遠方には赴いていない。ただ、「仲條さんの話を聞きたい」と旭市へ来る人には変わらず自身の体験談を語っている。
「旭市防災資料館」に足を運ぶこともある。津波の様子や被害状況が克明に記されたパネル、津波の到達時刻に止まった時計の展示が、当時の記憶をリアルにする。資料館もコロナ対策で、現在は予約制とし、館内が密にならない工夫をしながら来館者を受け入れ続けている。
東日本大震災以降、この10年間に多くの地域で地震、台風、豪雨災害が頻発した。仲條さんは「むしろ被災から逃れた地域から、話を聞きたいとの要望がある」という。2018年に訪問した福岡県うきは市では講演後、聴衆の一人が「実は私も豪雨災害に遭いました」と明かした。その前年、隣接する朝倉市を中心に起きた九州北部豪雨で被害にあったのだ。仲條さんは「『ここまで浸水した』という経験談をぜひ、地元の人に伝えてほしい」と促した。それが人々の意識を高め、早めに逃げるきっかけになると考えたからだ。
震災経験を伝えることで、今後の防災に生かしたいと仲條さん。一方で、被災したつらい記憶をいつまでも引きずらず、「次へ一歩踏み出す」ことが大切だと考える。「特に今は、新型コロナの到来で世の中は大きく変わろうとしています。つらかった経験は心の隅に残していいから、新たな生き方をしていこうと前に進むタイミングではないかと、私は思います」。(この連載は随時掲載します)
(J-CASTニュース 荻 仁)