PCR検査 医療報道の難しさ
冒頭でご紹介したように、浅井さんは新聞社をやめて大学院に進み、公衆衛生学修士の課程を修了して今は博士課程にいる。
耳慣れない言葉だが、公衆衛生学修士(MPH)は、経営学修士(MBA)と同じように、実務を含めた専門職の養成課程だ。浅井さんによると、米国では、公衆衛生学修士を持っている科学・医療記者はそう珍しくはないが、日本では浅井さんの知る限り、他社の記者にもう一人いるだけだという。
深い専門知識を共有していないと、コミュニケーションに誤解やズレが生ずることもある。
たとえばPCR検査の精度について、臨床の場では「感度」や「特異度」が問題になるが、昨年来のコロナ報道で、このことを正しくとらえた記事は少なかった、と浅井さんはいう。
「感度」と「特異度」について、東大保健センターのサイトでは、次のように説明している。
新型コロナウイルス感染症も含め、疾患の検査にはその精度を検証する必要があります。その指標として感度、特異度、陽性的中率などがあります。感度はその病気に罹患している人の中で、検査で陽性になった人の割合、特異度は病気に罹患していない人の中で、検査で陰性になった人の割合、陽性的中率は検査で陽性の人の中で実際にその病気に罹患している人の割合です。
そうした前提のうえで同サイトはPCR検査の精度について、次のように説明する。
PCR法では検体採取や検体保存の条件などで偽陽性(本当は新型コロナウイルス感染症で無いのに、陽性と出てしまう)、偽陰性(本当は新型コロナウイルス感染症であるのに、陰性と出てしまう)が起こりえます。この割合ははっきりしていませんが、PCR検査の感度(新型コロナウイルス感染症の方で、PCR検査が陽性となる割合)は現時点では高くて70%程度と考えられており、検査結果の判断は慎重に行う(PCR法で陰性でも、新型コロナウイルス感染症でないとは言い切れないことがある)必要があります。
すぐには理解しづらいが、今のところ、「偽陽性」や「偽陰性」の割合はよくわからないが、実際に感染した人が陽性と判明する「感度」は、高くて7割程度という説明だ。
だが、実際の報道記事の中では、この「感度」を、「陽性的中率」(「検査を受けた人のうち、真の罹患者を示す割合)と混同されかねない記述があった。この「陽性的中率」について、同サイトは次のようにいう。
この陽性的中率は、罹患率によって変化します。罹患率が低下すると、陽性的中率も低下することになります。PCR検査をより多くの人に施行すると、その集団内での罹患率は低下することが予想されるので、陽性的中率は低下、つまり実際には罹患していないにもかかわらず陽性と判定される人が増加することになります。
「PCR検査をできるだけ多く実施すれば、感染の実態がわかる」。そうした主張に対し、浅井さんは以上のような説明を踏まえ、「感染者の割合や検査の感度を勘案すれば、簡単にはそう言い切れないことがわかる」と指摘する。
また、「感度」が約7割ということを理解してもらわないと、救急医療などの現場で陰性反応が出ても3割が外れているのではないかと疑い、感染者用と非感染者用以外に第3の部屋を設けて再検査をするなど、現場の大変さが理解されない、とも言う。「実際の臨床では医師が咳や発熱などの症状を診て総合的に判断しています」。
浅井さんは、昨年1月から6月までの朝日、毎日、読売3紙の東京本社版朝夕刊から、「新型コロナウイルス」というキーワードで記事を検索し、計量テキスト分析を行った。
その結果、2万5983件の記事のうち、PCR検査の「感度」について言及した記事は5件しかなかったという。それは以下の記事だ。
3月 毎日「坂村健の目:正しさの確率」
5月 毎日「抗原検査、どう使う?=青野由利」
5月 毎日「新型コロナ:新型コロナ 抗体検査キット、注文殺到 15分で判定、院内感染防止も」
5月 毎日「新型コロナ:新型コロナ 発症前検査、PCR拡大に慎重論 専門家、精度問題視」
6月 読売「基礎からわかる新型コロナ検査=特集」
一方、記事の中で「精度」に触れた記事には、次のような用例があったという。
「PCR検査で感染患者を「陽性」だと正しく診断できる精度は70%程度とされる」
「PCR検査の精度は6~7割と考えた方がいい」
「抗原検査はPCR検査に比べ、精度が低いとされる」
「唾液を使うPCR検査も精度が課題とされた」
こうした分析から浅井さんは、次のように指摘する。
「一般読者は『精度=陽性的中率』という受け止め方をしやすいのではないか。PCR検査に関して感度・特異度を説明した記事の数は少なく、『精度』と書き換えることによって誤解を生みやすい状況が生じていたと思う」