小渕政権「ミレニアム・プロジェクト」の末路
日本では98年に政権の座に就いた小渕恵三首相が99年12月、情報化、高齢化、環境対策などを柱にした「ミレニアム・プロジェクト」(新しい千年紀プロジェクト)を策定し、その中にゲノム解読を位置付けた。このプロジェクトは、以下のように格調高いものだった。
新しいミレニアム(千年紀)の始まりを目前に控え、人類の直面する課題に応え、新しい産業を生み出す大胆な技術革新に取り組むこととし、これを新しい千年紀のプロジェクト、すなわち「ミレニアム・プロジェクト」とする。具体的には、夢と活力に満ちた次世紀を迎えるために、今後の我が国経済社会にとって重要性や緊要性の高い情報化、高齢化、環境対応の三つの分野について、技術革新を中心とした産学官共同プロジェクトを構築し、明るい未来を切り拓く核を作り上げるものである。
その目標の一つが、「高齢化社会に対応し個人の特徴に応じた革新的医療の実現(ヒトゲノム)と、豊かで健康な食生活と安心して暮らせる生活環境の実現(イネゲノム)」だった。具体的には、「2004年度を目標に、高齢者の主要な疾患の遺伝子の解明に基づくオーダーメイド医療を実現し、画期的な新薬の開発に着手する」などの事業計画を掲げた。ヒトゲノム解析についても、「ヒトの遺伝子約10万個のうち、ヒトの体内で発現頻度が高い約3万個について解析を実施(2001年度目標)」するなど、具体的な期限も設定している。
もっともこのプロジェクトには、「2001年度までに、全ての公立小中高等学校等がインターネットに接続でき、すべての公立学校教員がコンピュータの活用能力を身につけられるようにする」とか、「2005年度を目標に、全ての小中高等学校等からインターネットにアクセスでき、全ての学級のあらゆる授業において教員及び生徒がコンピュータを活用できる環境を整備する」などの目標も掲げられており、コロナ禍でIT導入の遅れの惨状が明らかになった今読むと、「画餅」か「夢物語」に近い。
周知のように小渕首相は2000年4月に脳梗塞で意識不明となり、昏睡状態のまま5月に62歳で亡くなった。その間、執務不能のため首相臨時代理に指名されたとする青木幹雄氏らが中心になって、後継に森喜朗政権を誕生させた。もしあのまま小渕政権が続いていたら、ミレニアム計画はどうなっていたか。言っても詮無き事でしかないが、その後のプロジェクトは一転、「喪家の犬」になってしまったようだ。
「ミレニアム・プロジェクトは、バイオテクノロジーやITといった先端科学技術の分野に研究費を投入し、他国よりも先回りするという発想だった。しかし、ゲノム解析完了後、日本は特許を取って新薬を開発する『ゲノム創薬』といった早急な医療応用に力を入れた。もちろん、その分野の競争は激しい。だが欧米ではそれに加え、『ポストゲノム』時代に基盤技術を構築する長期目標を立てた。その違いは大きい」
浅井さんはそう指摘する。その象徴といえるのは、国際ヒトゲノム計画が終わった翌年、米国立ヒトゲノム研究所が次の目標に設定した「1000ドルゲノム」計画だ。
これは1人分のゲノム解析にかかる費用を1000ドルに下げる目標を設定し、ゲノムをより早く、安く解析できる新技術を後押しするプロジェクトだった。こうして、恩恵を受けたイルミナ社などは高速のシーケンサーを開発した。次世代シーケンサーの開発で、診断法や治療薬につながる手がかりが見つけやすくなり、バイオテクノロジーにかかわる人材も厚みを増した。
国際ヒトゲノム計画で、日本が国際プロジェクトで果たした貢献度は全体の6%ほどだった。当時は「ゲノム敗北」とも言われた。だが、浅井さんが当時の事情を今の大学院生に話すと、みんな驚くのだという。「6%も貢献していたのですか」という驚きだ。裏を返せば、その後の日本の技術開発や人材育成は、それほど立ち遅れたということだろう。
「今回の新型コロナウイルス対応で、中国はウイルスのゲノムをいち早く解析して遺伝配列を公開した。その情報をもとに人工的に合成したDNAの断片(プライマー)でPCR検査もできるし、変異ウイルスも突き止められる。RNAやDNAを使ったワクチンがこれほど早くできるのも、バイオ技術や人材の蓄積があってのこと。中国のゲノム企業BGI社は昨年2月、武漢に1日1万件のPCR検査ができる施設を急遽作って稼働させた。上海などから人材と装置をかき集めたようだ。中国はバイオ技術の層が厚い」