「ヒトゲノム計画」への日本の貢献
浅井さんによると、90年代にバイオテクノロジーの機運を盛り上げたのは、ヒトの全遺伝情報を読み解く「ヒトゲノム計画」だった。
ヒトゲノムは、人間の全遺伝情報のことだ。DNAは4種類の塩基(アデニン、グアニン、シトシン、チミン)から成っている。ヒトゲノム計画はヒトの細胞に含まれている30億個の塩基対の並び方を順に読み取って、いわば地図を作ることを意味する。
DNAの二重らせん構造を明らかにしてノーベル賞を受けたジェームズ・ワトソン博士らが1986年、米国で開いたヒトの遺伝学に関する大規模な会議で「ヒトゲノム計画」推進論を提案し、論争になった。
その背景には、当時すでに、遺伝情報をめぐる発見や技術開発が相次ぎ、医療や医薬品開発に役立っていたという事情があった。
がんを引き起こしたり抑制したりするヒトの遺伝子が次々と見つかり、遺伝情報解析ががん治療に役立つという期待が高まった。80年代半ばにはDNAを大量にコピーするPCR(ポリメラーゼ連鎖反応)の技術や遺伝情報を読み取る自動配列解読装置(シーケンサー)も開発されていた。
米国は1990年、15年間で全遺伝情報を解析する「ヒトゲノム計画」を発表した。この計画は、翌年以降、英国を中心とする欧州、日本などの協力を得て「国際ヒトゲノム計画」に発展し、世界で3千人以上の研究者が協力する態勢が生まれた。
一方、こうした公的研究とは別に、ゲノム解読を医薬品開発などに役立てたいと、米国の民間企業も独自の解読に挑み、競争は激化した。
日米欧の国際チームは2000年、ヒトゲノムの大まかな内容を示す「概要版」を発表。
さらにワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発見して50年の節目となる2003年4月、米・英・独・仏・日・中6カ国首脳はヒトゲノムの解読完了を宣言した。
当時、ゲノム解読の最前線を米英などで現地取材していた浅井さんは、「その後の展開が日本とはまるで違った」という。