『一〇三歳になってわかったこと』が50万部超のベストセラー
日本の書道界は、主要な書道団体に属して受賞歴を積み、栄達の階段を上がる仕組みだ。頂点にたどり着いた人が文化勲章などを受章する。篠田さんのように、国内の団体展とは距離を置き、海外での評価が先行するのは異例だ。
作品が独創的で、先駆的だったこと、米国人がエキゾティズムを感じたことが海外で人気を博した大きな理由だった。篠田さんも、「水墨という、ほかにはない材料で描いているから非常に有利だった」と認める。ただし、「誰でも真似してやってみるけど、こりゃあ、ダメだっていうのであきらめる。墨というのはそんなに簡単に手なづけられる材料ではないんですよ」と難しさも強調する。修練を積めば、「この程度の墨を筆に含ませて、この速度で引けばこうなると八分ぐらいの予測はできるようになるが、あとの二分は分からない。天気や体調で日々変わる。墨はいつも裏切る。思い通りにいかないから面白い」と魅力を説明していた。
作品は内外の主要美術館に多数収蔵され、在外公館や有名ホテルなどの壁面も飾る。個展も多い。随筆家としても人気があり、79年には随筆集『墨いろ』で第27回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞している。このところ、『百歳の力』(集英社新書)、『一〇三歳、ひとりで生きる作法』(幻冬舎)、『人生は一本の線』(幻冬舎)など出版が続き、『一〇三歳になってわかったこと』(幻冬舎)は50万部を超えるベストセラーとなった。
若いときは結核にもなり、長生きは望めないと思っていた。「百歳なんて言うのはまったくの予定外」。凝った食事をするわけでもなく、三、四十代のころの着物をそのまま着続けるなど、「ほどほど」を心がけて生きてきた。
だが、「仕事というのは百歳を過ぎても、本当にきりがありません」。一つの作品を仕上げている途中に、いつも次の作品への思いが湧きだす。それが生きるエネルギーになっていた。
生涯、独り身。著書の中で、「精神的な先達」として女学校時代の英語教師、北村ミナ先生の名を挙げている。詩人の北村透谷(1868~94)の妻で、透谷が自殺したあと、一人娘を透谷の母に預けて、単身米国にわたった。皿洗いをしながら勉強を重ねて帰国。篠田さんの女学校の英語教師に。
自身の体験も踏まえ、生徒たちには、「女の人も、なにか一つの仕事というものができるようになることをすすめます」と語っていた。その教えを心に刻み、「一つの仕事」をやり遂げたのが篠田さんの一生だった。