科学報道の落とし穴
尾関さんの話をうかがって、私は昨春のPCR検査にまつわる報道を振り返ってみた。
世界保健機関(WHO)は検査の重要性を説き、主要各国は競って検査能力の増強にいそしんだ。そんな中で、日本では厚労省がガイドラインを示してPCR検査を絞り込み、症状があるのに検査を受けられない人々の不安や焦りが報道された。
だが、厚労省は、日本ではクラスターを追跡する手法を徹底させており、広範な検査で感染者を一網打尽に捕捉し、隔離するのは不要もしくは無益、という立場をとっていたかに見える。
その理由として挙げられたのは、私が見聞きした範囲でいうと、次のような点だった。
○PCR検査には偽陽性や偽陰性がつきもので、精度に限界がある
○保健所はクラスター追跡に総力を挙げており、人的な余力がない
○効果的な治療薬やワクチンがなかった当時、感染とわかったとしても、有効な治療はできない。多くの人は無症状か軽症に留まっており、むしろ無用な混乱を招く
テレビのワイドショーなどでは、検査数の少なさを指摘し、「検査を増やさねば、感染状況はわからない」とか、「クラスター追跡はいずれ行き詰まり、市中感染に対処できない」などの批判が相次いだ。
もちろん、双方の考え方には一定の根拠と論理性があり、一概に是非は判断できないだろう。だが、メディアがそれを「両論併記」するだけでは、読者や視聴者は判断に迷い、疑心暗鬼にとらわれることになる。
そのような時に、かつて厚労省が設置した新型インフルエンザについての総括会議で、PCRを含む検査態勢の強化を提言していたことを問題にしていれば、議論は違う展開になっていたのではないだろうか。
実際、その後政府は遅ればせながらPCR検査拡充の方針に転じたが、その政策転換について、明確な理由を説明しなかった。この政策転換の時期や理由については、今後厳密な検証作業が必要だろう。
科学報道に求められるものは、正確さや迅速さや「個」のニーズに応えるサービス精神だけでなく、読者や視聴者の「生命と健康」を守るために、必要な情報を取材し、政策への問題提起をする「公益性」にある。
取材源の土俵で、取材源に食い込み、いち早く情報を取って他社を抜く。そうした慣行にとらわれることは、「科学報道」の本来の役割とはいえない。専門家や研究者の知見を踏まえ、政府や自治体の政策や対策の是非を判断するにあたって、重要な事実を提示し、問題提起をする。政治、経済、社会など他の事象を扱う分野と同じように、「科学報道」にとって最も重要なのは、その「公益性」だろう。
尾関さんに話をうかがって、そんなことを考えた。
ジャーナリスト 外岡秀俊
●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。