科学部から科学医療部へ
昨年亡くなった私の先輩、柴田鉄治さんに「科学報道」(朝日新聞社)という著書がある。科学記者や科学部長の経験を踏まえ、戦後の科学報道の歩みや問題点を総括した本だ。
それによると、戦後の科学報道の転機は1954年3月、改進党の中曽根康弘氏らが保守3党間でまとめた「原子力予算」に遡る。学会でも原子力の平和利用研究を始めるかどうか、議論が始まったばかりのころだ。
しかもこの予算が急浮上した同じ日に、南太平洋ビキニ環礁の近くで操業していた漁船「第五福竜丸」の乗組員が米国の水爆実験による死の灰を浴び、帰港後の3月16日、読売新聞焼津通信部の記者がスクープを放った。
こうして、最初の原子力予算の誕生と、初の水爆被災が重なり、戦後の科学報道は原子力を中心に動き出すことになった。
読売新聞は54年の正月企画として社会部に取材班を作り、「ついに太陽をとらえた」という長期連載をしていた。これがビキニ被災の大スクープにつながった。担当記者たちが焼津通信部からの情報の重大さを的確につかみ、正確な記事に仕立てた。
朝日新聞は50年代から「科学欄」を設け、学芸部に数人の「科学記者」を集めていたが、原子力のわかる専門記者はおらず、大慌てで原子力記者の養成に取り掛かった。折りからの「原子力ブーム」に応えるために各社科学部創設を急ぎ、朝日の場合は57年5月1日、部長1、デスク1、部員4の陣容で科学部を発足させた。この年10月にはソ連が世界に先駆けてスプートニク1号を打ち上げ、米国に「スプートニク・ショック」と呼ばれる衝撃を与える。ここから始まる米ソの宇宙開発競争が、科学部の重要性を際立たせることになった。
その後、科学報道は様々な曲折をたどるのだが、このコラムでは取りあえず、コロナに直接関連する医療報道に焦点を合わせよう。
尾関さんが科学記者になった1980年代、科学部で新米記者の多くが受けもたされるのは、健康相談欄だった。
読者からの手紙やはがきに綴られた健康の不安や、病気の悩みを専門医に伝え、インタビューする記事だ。そのころからすでに、読者の求めに応じて最新の診断法、治療法を紹介することが、医療報道の原型とみなされていた。こうした報道姿勢は90年代に、いっそう強まった。
それには三つの時代背景があった、と尾関さんはいう。
一つは1990年、日本医師会の生命倫理懇談会が「『説明と同意』についての報告」という提言を出し、医療現場で「対話型医療」の機運が高まったことだ。
それまでは、がんも患者本人には知らせず、どのくらい進行しているかなどは、家族や近親者のみに知らせるのが一般的だった。
それが、医療現場では、患者が治療法の説明を受けたうえで一つの選択肢に同意する「インフォームド・コンセント」の流れへと切り替わっていった。その結果、なにごとも医師任せにせず、医療情報を自ら収集する患者が増えたのは間違いない、と尾関さんは言う。こうして医療報道の需要が拡大したのである。尾関さんは92~95年にロンドンに駐在し、科学情報を追いかけたが、帰国して、まさにその変容振りを実感することになった、という。
第二は1995年に始まるインターネットの普及だ。それまで一般の人の医療情報といえば、医療機関から受ける説明を除けば、家に常備している家庭用の医学書などを参照する程度だった。しかしネットの普及と検索機能によって、個別の病気の具体的な知識、細分化された医療情報も入手できるようになった。デジタル・リテラシーが乏しい高齢者らは、ネットの代わりに、同じ情報を新聞に求めるようになった。
第三は、20世紀後半、とりわけ世紀末から21世紀初頭にかけて顕著になった生命科学の進化だ。免疫など生体のしくみがDNAレベルで解き明かされ、さらにヒトゲノム解読で人間の遺伝情報の全体像が見えてきたことで、将来は個人別にふさわしい医療サービスを提供する「オーダーメイド医療」も夢ではない、と喧伝された。2000年代以降は再生医療やゲノム編集などの新技術が進展してバイオ系の科学技術はITや金融工学などと並び、将来産業の花形になると目され、政財界からも注目された。
情報ニーズの変化に敏感なメディアが、こうした動向の変化に気づかないはずはない。21世紀にかけて、朝日新聞幹部は、教育・環境問題と並んで医療が報道の三本柱のひとつになると考え、大阪本社科学部長だった尾関さんにも部名変更の社内申立書を書くよう促した。「科学部」を「科学医療部」に改編して、医療報道に力を入れる、という方針だった。
尾関さん自身は、医療も科学分野の一つと考えていたから、改称の必要を感じなかったが、「医療という看板を掲げることで科学報道の存在感を高められる」という思惑もあって、これに応じた。
こうして朝日新聞は02年、「科学部」を「科学医療部」に改名した。それまで別刷り日曜版に載っていた健康面を医療面の名で朝刊本体に組み込んだのも、今も続く長期連載「患者を生きる」をスタートさせたのも、このころだ。
その当時、ブームになった医療報道が目指していたのは、患者や患者家族一人ひとりの思いをすくいあげる記事の発信だった。そう尾関さんはいう。
その象徴が「患者を生きる」だった。闘病というよりも病とつきあいながら生を充実させようとする人々に焦点をあて、新しい医療の選択肢を提示する試みだ。尾関さんは、これには読売新聞の長期連載「医療ルネサンス」という先行例があったともいう。「個」に寄り添う記事は、新聞が読者の心をつなぎとめる必須アイテムとなっていた。
読者ニーズにこたえるこうした医療報道が間違っていたわけではない。だが、今回のコロナ禍で尾関さんが受けた「衝撃」は、こうして「個」に寄り添う紙面づくりに追われるあまり、「公」の視点から公衆衛生政策の不備を検証しようという方向性が希薄だった、という点に起因する。