外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(34)科学ジャーナリスト・尾関章さんと考える「科学報道」の落とし穴

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   日々の感染者数や死者数から、ワクチンの接種状況まで、新型コロナについて報じられない日はない。だが、メディアは十全の機能を果たし、コロナについて正しく報じてきたか。「私たちの過去の医療報道には、大きく欠落した部分があった」。自戒を込めて問題を提起する科学ジャーナリスト・尾関章さんに話をうかがった。

  •    (マンガ:山井教雄)
       (マンガ:山井教雄)
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欠けていた「社会」への視点

   尾関さんは早稲田大学大学院で物理を専攻してのち、1977年に朝日新聞社に入り、ヨーロッパ総局員(ロンドン駐在)、科学医療部長、論説副主幹などを務めた。2013年に退社し、14年4月から2年間、北海道大学客員教授になり、今は法政大で非常勤講師をしながらフリーのジャーナリストとして活動している。関心領域は量子力学など基礎科学が中心だが、医療や生命倫理など、守備範囲は広い。これまで「科学をいまどう語るか――啓蒙から批評へ」(岩波現代全書)、「量子論の宿題は解けるか」(講談社ブルーバックス)などの著書を発表する一方、読書ブログ「めぐりあう書物たち」を開設し、発信を続けている。

   実は尾関さんは、私と朝日新聞の同期入社で、共に働いただけでなく、退社後も年に一、二回は会って懇談してきた。科学だけでなく、思想・哲学などにも通じ、該博な知識と冷静な判断力のバランスが絶妙だ。科学が絡む大きな事件・事故に際しては過去何度も、彼の見方を自分の判断の指針にしてきた。その尾関さんに2月11日、ZOOMで話をうかがった。

   私が尾関さんに話を聞きたいと思ったのは、昨年6月、彼が言論サイトの論座に発表した「コロナ禍で医療報道ブームを自省する」という文章を読んでからだった。これまでの医療報道は「個」に寄り添ってその要請に応えてきたが、「公」の視点が欠けていたのではないか、という率直な反省である。現場の医療報道チームを長く率いてきた人だけに、その論文は、医療報道の構造的な問題を指摘している、と感じた。インタビューは、この文章をなぜ書こうと思ったのか、その動機への質問から始まった。

「きっかけは、コロナの感染拡大が始まった昨春、後輩記者が書いた記事でした。米国の研究結果などを紹介しながら、最良の感染防止策は『人との接触を断つ』ことであると伝えた内容です。その記事を読んで衝撃を受けた。筆者は、基礎医学や生命科学の専門知にも通じた有能な科学記者です。その記者が『最良の感染防止策は、人と2メートル程度の距離を置くこと』と書く。いわゆるソーシャル・ディスタンシング(社会的距離)について初期のころに触れた記事の一つです」

   ではなぜ、その記事に「衝撃」を受けたのか。すぐには尾関さんの言葉の意味が分からなかった。

「あれだけ最先端の医学知識を蓄積した記者が、『2メートル』の記事を書く。そう書くしかないことへの驚きです。同じような衝撃はもう一つあった」

   それは、イタリアの作家パオロ・ジョルダーノのエッセイ集「コロナの時代の僕ら」(早川書房)を読んだ時の衝撃だったという。尾関さんは昨年5月2日付の読書ブログ「めぐりあう書物たち」に「物理系作家リアルタイムのコロナ考」という文章を掲載し、読後感を綴っている。

   ジョルダーノはトリノ大大学院で素粒子物理を学んだ理系作家で、同じように物理系出身であることから、尾関さんは以前から注目してきた。

   ブログによると、「仮に僕たちが七五億個のビリヤードの球だったとしよう」という一文で始まるエッセイには、次のような趣旨のことが書かれていた。

   球の一つひとつが、感染可能な人に相当する。一つの球を突くと、それは二つの球を弾いて止まる。弾かれた球は、それぞれが別の二つの球を弾き......という連鎖が生まれたとしよう。これこそが「感染」だ。「感染症の流行はこうして始まる」「初期段階には、数学者が指数関数的と呼ぶかたちで感染者数の増加が起きる。

   この一編には「再生産数」という言葉が出てくる。事象の連鎖による増え方を数値化したもので、ビリヤードの例では再生産数=2になる。

   尾関さんは、このエッセイを引用しながら、次のように書いている。

   ここで著者が強調するのは、再生産数が1より小さければ「伝播は自ら止まり、病気は一時の騒ぎで終息する」が「ほんの少しでも1より大きければ、それは流行の始まりを意味している」ということだ。これは数理の掟と言ってよい。

   今回の感染禍で、もともとの再生産数が1を超えることは、ほぼ間違いない。だからこそ、感染拡大が収まらないのだ。だが、「希望はある」と著者は断言する。本来の再生産数が1より大でも、現実の再生産数は「僕ら次第」で「変化しうる」。私たちが「伝染しにくい」状況をつくりだすことで「臨界値の1」を下回ることがありうる。「必要な期間だけ我慢する覚悟がみんなにあれば」「流行も終息へと向かうはずだ」。

   このどこが「衝撃」か、訝しく思う向きもおられよう。今や「実効再生産数」は日常用語になっているし、それを「1以下」にすることが収束への第一歩であることは、中学生も理解している。だが昨春の段階で、この単純な数値計算が何を意味しているのか、正確に理解した人はどのくらいいただろう。「感染を減らすには、私たちが人と距離を置き、行動を変えるしかない」という、私たちが第2次緊急事態宣言下で日々思い知らされている単純な事実だ。

   つまり、尾関さんの受けた「衝撃」とは、科学記者が日々蓄積し、追い続けた膨大な最先端医療の知見から、その「単純な事実」がすっぽり抜け落ちていたことへの驚きと、自省だった。

   尾関さんはそのころ、民放テレビで識者が、「日本の科学ジャーナリストの層が薄い」というコメントをしたのを聞いて、最初は内心反発した。

   しかし、その後、次のように考え直したという。論座の文章から引用する。

その後、そのひとことは私の心にグサリと刺さったままだ。今回のコロナ禍を見ていると、科学報道に長く携わってきた者として自省すべきことがあるという気がしてきた。今、コロナ報道に日々忙殺されている現役記者たちが悪いわけではない。むしろ、前世紀半ばから脈々と続いてきた日本の科学ジャーナリズム、医療ジャーナリズムそのものに弱点があったのではないか――そんな思いがある。

   科学記者経験者の多くが痛感したと思われるのは、新型コロナウイルス感染の急拡大期、最先端の医療にほとんど出番がなかったことだ。もちろん、例外はある。抗ウイルス薬が効いたという話はあるし、人工肺も重症患者の治療に生かされた......。ただ近年、科学記者が追いかけてきたゲノム編集や再生医療などとは方向性の異なるところに問題の核心があった。ワクチンや特効薬が開発されるまでの間、感染の広まりを阻む最大の決め手は人と人の接触を減らし、人と人を引き離すことしかなかったのである。

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