G.G.佐藤が落球を「ネタ」にできた日 「あのエラーがあってよかった」自虐ツイートに込める思い

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   G.G.佐藤――このユニークな選手名を覚えている野球ファンも少なくないのではないだろうか。元西武・ロッテで活躍したG.G.佐藤こと佐藤隆彦さん(42)だ。

   埼玉西武ライオンズで「キモティー!」のフレーズとともにブレークするも、2008年の北京五輪での落球がこの人にはついてまわる。五輪から13年が経った今なお北京の試合を「悔しい」と話す彼は、会社役員も務めるビジネスマンだ。

   一方で、2021年1月にはツイッターアカウントを開設、当の北京のプレーをもネタにするなどユニークなツイートがネットユーザーの話題になってもいる。自らの前半生を賭けてきた野球に区切りをつけ、企業の「顔」役も務める自身のキャリアの糧にできるまでを聞いた。

(聞き手・構成/J-CASTニュース編集部 大宮高史)

  • 引退から7年を経て、会社員としても出世し今は役員も務めるG.G.佐藤さん
    引退から7年を経て、会社員としても出世し今は役員も務めるG.G.佐藤さん
  • 引退から7年を経て、会社員としても出世し今は役員も務めるG.G.佐藤さん

野球を「楽しんで終わりたい」とイタリアへ

   G.G.佐藤さんの経歴をおさらいすると、法政大学から米マイナーリーグでのプレーを経て2003年のドラフト会議で西武ライオンズに入団、外野手でレギュラーの座を掴み「キモティー!」のフレーズで知名度も上昇、とここまでは一見順風満帆のはずだった。

   しかし2008年に北京五輪の野球日本代表に選ばれる栄誉を勝ち取ったはずが、五輪準決勝と3位決定戦での致命的な失策でバッシングを浴び、野球人生の暗転が始まった。

   2011年限りで西武を退団するとイタリアのプロリーグに渡り1年間プレー、翌2013年からNPBロッテで2年間プレーしたのを最後に現役を引退し、土地測量などを業務とするトラバース(千葉県市川市)で会社員としてキャリアをスタートさせた。現在は同社千葉営業所の所長そして取締役として多くの部下を率いる身でもある。

   ――まずは西武を退団後、海外でのプレーを模索した理由をお聞きします。

西武を戦力外になった時点で怪我もあり心も体もボロボロでした。でもいろいろ苦しんだ分野球を嫌いになっていた気持ちもあって、最後に1年だけ、野球を好きになって終われる年にしようと思い、野球を楽しんでやれる場所を探した結果がイタリアでした。がむしゃらに現役続行!とかよりも心の区切りをつけようという意味合いの方が強かったんです。
きれいさっぱり野球を辞めるためにイタリアに行ったと言っても過言ではなかった。

   ――なぜ、海外のリーグの中でもイタリアに?

複数の海外リーグを考えたのですが、本当に直感で選んだんです。イタリアやイタリア人の空気にも興味があったし、昔の自分に戻れそうだと。行ってみると楽しかったですね。スポーツといえばサッカーの国なので、本当に野球が好きな人達ばかりが集まって楽しんで、プロの仕事というよりも楽しんで野球をやれたので良かったと思います。もちろん日本に比べれば給料は低いですが、実は家と車、それに食事は無料で用意してもらえて、家族3人で生活する分には十分でしたね。
昔は野球が全てで、逆に言えば結果が出せなければ自分には価値がないとも思う時もありましたが、国が違うだけで野球すら知らない人がいる。それにもカルチャーショックを受けて、もっと人生を楽しんでもいいんじゃないかと思えるようになりました。

   ――そして2012年オフにロッテと契約し、再び日本でプレーすることになりました。

もう野球には未練はなくて、西武入団時にお世話になった伊東勤さん(04~07年に西武監督)に「引退します。ありがとうございました」とお礼の電話をしたら、そのしばらく後に伊東さんがロッテの監督になられた。もしかしたらと思っていたら、伊東さんから「まだお前の野球への情熱は消えてないか?」と声がかかりました。それで「まだ消えていません」と答えたら、入団テストを受けさせてくれて合格できて、僕にとって地元の球団でもあったので引退するならロッテもいいなと思っていたので、嬉しかったですね。伊東監督に拾っていただいた運でプレーできたようなものです。

   ――西武時代に比べると、ロッテ時代はどんな心境でしたか。

イタリアリーグを経験して、野球を楽しむという感覚を取り戻せたので、その価値感を持ったまま、楽しんでやれた2年間だったと思います。
イタリア人に「どんな時が楽しい?」って聞いてみると、「人とお酒を飲んだりして誰かとコミュニケーションを取っている時だ。そういう時に俺たちは生きてるって実感する」って答えるそうです。それに比べるとあまり野球を楽しめていなかった頃の自分は、ホームランを打った時くらいしか幸せを感じていなかったな、と。まるでマシンのような、機械的な人間だったなと思います。

   ――なぜ、あまり野球を楽しめていない時期があったのでしょう?

やはり活躍したかった、という気持ちが強かったから。プロ入りした年齢も遅かったし、家族もいてレギュラーを取りたかった。プロである以上、僕以外も皆同じで必死ですよ。ヘッドスライディングする高校球児のように表には出さないけど、皆人生をかけてやっていましたから、精神的な辛さはあります。
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