「一身二生」で豆腐屋になる夢を実現
久しぶりにお目にかかる清水さんは10年前と変わりなくお元気で、精力的だった。私の質問に対し、「あそこに書いた通り」と軽くいなした後、こう付け加えた。
「実は、定年が近づいて、第2の人生をどう生きるかを考え、頭に浮かんだのは伊能忠敬の『一身二生』の生き方だった。バルセロナは気に入ったし、いつか豆腐屋もやりたいと憧れていた。でも、住んだことのないバルセロナで、やったことのない豆腐屋を仕事にするなら、これは自分にとっての『一身二生』になるのでは、と思った。みんなに『バルセロナで豆腐屋になる』と公言したのは、自分の退路を断つためだった」
「一身にして二生を経る」とは、幕藩・明治の二つの時代を生きた福沢諭吉が使って広まった言葉だ。しかし、隠居してから弟子入りして暦学や測量を学び、全国を測量した伊能忠敬の人生ほど、この言葉に似つかわしい生き方はないだろう。
多くの人は定年後、それまでの生き方から自由になり、自ら封じてきた夢を追ってみたいと思う。しかし多くは、それまでの重力圏から逃れられず、かつての「実績」や「肩書」にとらわれ、組織にしがみつこうとする。清水さんがそうならなかったのは、持ち前の行動力と集中力、それにご家族の支えがあったからだろう。
バルセロナはイベリア半島北東部、地中海に臨むカタルーニャ州の港町だ。スペイン第二位の人口160万人を抱える。イスラム支配の後、10世紀にフランク王国から独立してカタルーニャ君主国になり、一時は隆盛を極めた。だが、スペイン統一後にカスティーリャ王国の中心地はマドリッドに移り、次第に周縁化されていく。
もともとカタルーニャは独自の言語・文化・歴史をもち、マドリッドへの対抗意識が強い。地中海に面したフランスなど他地域とのつながりも深い。繊維業も盛んで、その富をバックに20世紀初頭には多くの芸術家が輩出した。
1936年~39年のスペイン内戦では、共和国を守る左派の統一戦線側に立って、反乱を起こした右派のフランコ軍と戦い、敗れた。ちなみにこの内戦では、共和国派に投入された国際旅団の一員としてヘミングウエイが「誰がために鐘は鳴る」を書き、オーウェルは「カタロニア賛歌」を書いた。また共和国派のピカソは、カタルーニャと共に共和国側に立ったバスク地方が、フランコ反乱軍を支援するドイツ軍から無差別空爆された惨禍を大作「ゲルニカ」に描き、反戦平和の不朽のシンボルになった。フランコ独裁の下で、1975年にフランコが死ぬまで、カタルーニャの言語は禁止された。
こうした背景から、カタルーニャ地方はスペインからの独立意識が強く、2010年代には二度の独立住民投票を行うなど、いまだにその流れは続いている。独裁には抵抗し、抑圧に対して抗議の声を挙げ続けるバルセロナは、たしかに清水さんが書いておられるように、欧州でも最も「自由の気風」で知られる町と言っていいだろう。