半藤一利さんが「100年」の単位に込めた意味
保阪正康の「不可視の視点」<特別編>(2)

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「墨子は偉いなあ。戦争反対をああいう時代にも言い残していたんだからなあ」

   半藤さんには昭和史を含めての歴史物だけではなく、茉利子夫人の祖父にあたる夏目漱石についての著作もある。そうした著作は文学論ではなく、エッセイという形をとっているが、漱石の人生観などが的確に描写されている。そういう中で漱石が、1903(明治36)年に作家になることを決意して大学教授の道をあっさりと諦めることに触れている。要は漱石は、大学教授や研究者などは退職してから10年、20年が過ぎれば忘れ去られる存在だが、作家の一文は100年が過ぎても残ると言い、自分はその道を歩むというのであった。

   100年、というのは、漱石が考えていた「単位」だったのである。

   私はその単位というのは、一つの形が完成することだと思う。憲法を100年守るというのは、この国が一つの形を作ることだと考えていたのであろう。半藤さんの、「絶対という語を使わない」「四文字七音に注意せよ」「100年持続せよ」を、私は遺言として受け止めている。これはいわば、きわめてわかりやすい表現としての説明になるのだが、この背景は、「平易な文体」「事実の検証」「市民の視点」「持続する精神」「人間の観察」といった半藤史観の骨格で支えられている。この骨格を見ること、つまり可視化していくこと、それは半藤さんの歩んだ道を歩むことだと、私は考えているのである。

   半藤さんの著作に、中国の戦国時代に生きた思想家の墨子について書いた書がある。墨子は戦争の時代に、「不攻」という論稿を発表している。あらゆる戦争の形態を批判していて、戦争は避けなければならないという思想である。むろん戦争を避けるというのは、現実を全て肯定しろというのではない。戦争に行きつく芽を刈り取る、そういう要因を作らないとの意味も含んだ哲学であり、思想であり、道徳律である。半藤さんはその書を80歳になったときに書いている。

   墨子に対する畏敬の念を強く持っていたのであろう。「墨子は偉いなあ。戦争反対をああいう時代にも言い残していたんだからなあ」とよく呟いていた。そういう時の半藤さんは確かに戦争の時代を生きた苦しみを思い出していたのであろう。そして末利子夫人への最後の言葉も、墨子を称える言葉だったという。(<特別編>(3)に続く。なかにし礼さんの評伝を掲載予定です)




プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、『昭和史の大河を往く』シリーズ、『昭和の怪物 七つの謎』(講談社現代新書)『天皇陛下「生前退位」への想い』(新潮社)など著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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