東京都港区のJR東日本・高輪ゲートウェイ駅付近で、昨2020年に明治初期の鉄道線路跡が出土した。この「高輪築堤」と呼ばれる遺跡の行方が揺れている。
JR東日本は当地で再開発計画を想定していたが、調査にあたった専門家も予想外だったと話すほどの、幕末明治の土木技術をとどめた大発見で、築堤の保存が課題となって浮上している。
高輪築堤は開発計画に影響しかねないほどの価値ある発見だったが、築堤がどこまで保存できるかは全く不透明で、まだ調査と協議の途上にある。
幕末明治の土木技術が結実
高輪築堤の現場は高輪ゲートウェイ駅西側に南北に広がる。1872(明治5)年に新橋~横浜間に日本初の鉄道が開業した時に石積みで構築し、線路を敷設したのが高輪築堤だ。当時、この築堤は海の上にあり、高輪ゲートウェイ駅やその東側は全て海だった。 明治初期の鉄道を描いた浮世絵には、しばしば品川付近で海の上を走る列車を描いたものがみられる。その描写が間違いでなかったことがわかり、また当時の土木技術がよく保存されている。
調査にあたった港区郷土歴史館の川上悠介さんは、高輪築堤の価値をこう解説する。
「明治初期の日本初の鉄道建築がとても良好な状態で残っていました。このエリアは陸側が軍が所有を主張した土地だったので鉄道を海の上に敷いたのですが、台場を築いた幕末期の土木技術と、西洋由来の鉄道建築技術の2つを応用させたものです。
海上であるにもかかわらず2年という短期間で完成させたことも特筆すべき歴史でした。築堤は大正期頃に埋め立てられてその後が不明だったのですが、この発掘調査でかなりの部分が残っていたことがわかりました」
出土した築堤の長さは約1.3㎞に及んだ。海の上に築堤が設けられた区間は現在の浜松町駅付近から品川駅北側付近にかけてで、列車が走る様を描いた浮世絵は多数残っており、当時人気の風景だったとのことである。言ってみれば、現代のベイエリアと同じようなお洒落スポットだったようだ。現在遺構の一部が保存されている、鉄道開業時に建てられた旧新橋停車場と同じくらい考古学的な価値は高いという。
また、出土した箇所の中に「第7橋台」という橋梁跡が見つかった。漁船を線路の下に通すために、石垣で築いた築堤の間に橋梁を作って水路を通した場所で、運良く残っていた。これも当時豊富な漁場でもあった東京湾の環境がうかがえる遺構だ。
大規模再開発用地での大発見
ところが、当地はJR東日本の大規模再開発計画があり、そもそも発掘調査もそれに先立って行われたものだ。
再開発計画「品川開発プロジェクト(第Ⅰ期)」は、高輪ゲートウェイ駅西口に4棟のビルが建ち、4つの街区にマンション・商業施設・オフィスなどが入居する計画で、2025年頃の完成を見込む。築堤が出土したエリアとほぼ重なる場所だ。計画通りに開発を進めるなら、高輪築堤は埋め戻しの上解体を免れない。
出土した遺跡はそのまま現地で保存する場合と、調査し記録を残した上で埋め戻し土地を活用する場合がある。後者の「記録保存」の方が、調査に時間がかかると川上さんは話す。
現在も港区教育委員会などが築堤を調査中で、これからどうなるかは全く決まっていない。現時点では「築堤をどこまで保存できるか、JR側とも協議中です」(川上さん)とのことで、調査の方も「旧新橋停車場の場合は発掘調査に年単位がかかりました」という前例があり、再開発のスケジュールにも影響するかもしれない。
JR側は20年12月時点で築堤の一部保存や移設保存を検討している と報じられていたが、築堤の規模や調査も途上であるため結論が出るまでには時間がかかりそうだ。
「築堤が埋め立てられたのも約100年前のことで、これほどよい状態で残っているとは予想していませんでした。JRにとっても自社の鉄道の原点で、近代化を象徴する遺産でもあるので、できればかなりの部分を保存できるとよいのですが」
と川上さんは話した。
予想外の大発見で、学界からも築堤の保存を訴える声が出た。日本考古学協会が2月3日までに「当時の最先端の土木工学を駆使したもので、日本の鉄道文化の始まり」「国史跡か国特別史跡に相当する」と、現地での全面保存を求める要望書をJR東日本・文化庁・国土交通省などに提出した。
1月に現地見学会に参加した鉄道ライターの枝久保達也さんは、現地を見て「土木遺産なので、作られたその場所にあることに大きな価値があると思います。何とか保存の折り合いがつけばよいですが、JRにとって再開発は、土木遺産が出土するリスクも考慮して計画する必要があるかもしれません」と語った。
鉄道遺産としては旧新橋停車場以来の大発見と思われる高輪築堤の行方は、近代化遺産が眠る大都市での文化財の保護と都市開発の両立という課題を問うているようだ。
(J-CASTニュース編集部 大宮高史)