直ちに自らの非を認める態度
ニューヨーク支局に赴任していた1989年から93年にかけ、私がアメリカ人がこう言うのを聞いたことがある。「アメリカ人が信用するものが三つある。聖書と、合衆国憲法と、NYタイムズだ」と。少々大袈裟とはいえ、「ペンタゴンペーパーズ事件」などで培った信頼性は絶大だった。
それは、自らが過ちを犯した場合、直ちに自らの非を認める態度によって担保されていた。91年の湾岸戦争に当たっても、NYタイムズは「地上戦になれば泥沼化する」という社説を繰り返し掲げて警告したが、地上戦が100時間で終結した翌日の社説でタイムズは「我々は間違っていた」と潔く謝罪した。だがタイムズらしいのは、その翌日からまた、ブッシュ(父)政権に対する厳しい批判を社説に掲げ続け、鉾先を緩めなかったことだった。ファクラーさんは言う。
「ジェイソン・ブレアのケースは、ネット時代の取材・報道の危うさを、ジュディス・ミラーのケースは『アクセス・ジャーナリズム』の怖さを示すことになった。タイムズはこの二つの事例を深刻に受け止め、記者にも教訓を徹底した。だからトランプ政権の4年間を持ちこたえられたのだと思う」
これはどういうことか。
ブレアの場合、彼の捏造や剽窃を支えたのは、「いつでも、どこでも繋がる」というネット環境だった。彼は現場に足を運ばず、様々な報道をパッチワークのように寄せ集め、偽りの臨場感を醸そうとした。時には現場写真を見て、そこから細部を再現し、いかにも現地に行ったという雰囲気を打ち出した。
タイムズの報道基準では、現場に足を運んで対面取材するか、電話取材か、電子メールでの取材なのか、記事の文中で明らかにしなくてはいけない。現地に行かなければ、「〇〇発」という発信地表記を使ってはならない。
ブレアは、こうした基本原則に違反し、行ってもいない場所で、見てもいない場所での出来事を記事にした。裏を返して言えば、ネット環境が進むにつれ、こうした原則を踏みにじるか、疎かにする傾向が強まり、そうした取材不足の記事を見抜くことが難しくなる、ということだろう。
たとえばコロナ禍で、ZOOM取材が常態化した場合、新聞社や通信社は、いちいちそれを表記しているだろうか。あるいはメールでのやりとりと、ZOOM取材や対面取材の違いを明記するだろうか。こうして取材の手段が不明確・不透明になれば、記事の信憑性は揺らぐだろう。
ミラー記者の場合は、権力との距離を見失い、そのリークをもとに記事を書く「アクセス・ジャーナリズム」が、世論操作や世論誘導につながった典型的なケースと言えるだろう。ミラー記者は、自分が取材したことを伝えるのが記者の仕事で、その真偽をチェックするのは私の仕事ではない、と抗弁したという。だが、政権に密着する記者が、意図的なリークをそのまま記事にするなら、それは政権のマウスピース、代弁者と見られてもしかたがない。
トランプ大統領は、そうしたネット社会の環境のもと、既成メディアを「フェイク」と攻撃して、自らの言いなりになるメディアを選別することで、既成メディアに拮抗するバーチャルな世界を作り上げた政治家だった。
「2016年のトランプ氏の当選は、アメリカのメディアにとっては大きな衝撃だった世論調査や統計は一見科学のように見えるが、その数値をどう解釈するかに当たって、主観が入り込む。物理学と違って、人間が判断することだから、鵜呑みにすることはできない。私たちが信頼性を取り戻すためには、今までとは違う取り組みをしなければならない。そうした自覚を迫られました」
ファクラーさんはそう話す。