「アクセス・ジャーナリズム」の弊害
ファクラーさんは近年、日本のメディアに色濃い当局への密着取材を、「アクセス・ジャーナリズム」と呼んで批判的な見方を強めてきた。権力者と距離を置かず、時には当局に批判の鉾先を向けず、情報源に食い込もうとする姿勢だ。
もちろん米国にも、公式の記者会見以外に、NYタイムズなど有力紙やテレビ局の記者だけが集まる「インナー・サークル」があり、特別のブリーフィングを受けたり、当局に優遇されたりする慣行はある。
だが日本の場合は、記者クラブ制度で同業者が集まり、お互いに抜け駆けしたり、「特落ち」といって、自社だけが特ダネを外したりしないよう、「談合」に近い独特の雰囲気を醸成し、当局を取材源とする「アクセス・ジャーナリズム」の傾向を強めている。ファクラーさんはそう指摘してきた。
その結果、報道は当局発表のものが多くなり、取材源である当局者の機嫌を損ねないよう、批判も抑え気味になる。
たぶんこれには、日米の権力基盤の在り方の違いにも影響されているのだろう。ホワイトハウスに行政権限が圧倒的に集中している米国と違って、少なくとも安倍第2次政権以前の日本では、行政は各省庁に権力が分散し、そのすべてを掌握していなければ、政策の決定過程は取材できなかった。従って、各省庁ごとに記者クラブができ、それらの情報を総合して全体像を再構成する必要があった。クラブに常駐する記者は、ふだんは当局の発表ものを書くか、事前に情報を入手して、いずれは公表される当局の文書を「特ダネ」として抜くことを競うようになった。それが当局と癒着し、当局に操作されるリスクを高めることにつながる危険性は、米国以上にあったのではないか、と思う。
さらに、国会などで日常的に議員から質問を受け、批判もされる日本の首相と違って、アメリカの大統領はふつう、議会に立ち会うこともなく、質問や批判にさらされるのはメディアとの会見などに限られる。アメリカのメディアが、日本のメディアに比べ、「権力のチェック」という重責を自覚するのも、ある意味では当然といえるかもしれない。
だが実は、こうした背景から生まれたアメリカの「調査報道」は近年、大きな揺らぎを見せ、NYタイムズ自身が、大きな失敗をおかした。だがその失敗から学んだことが大きな資産となり、この4年間のトランプ大統領によるメディア攻撃にも屈しない力を与えた。ファクラーさんは、そう指摘する。