外岡秀俊の「コロナ 21世紀の問い」(31)僧医・対本宗訓さんと考える「生と死」

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   コロナ禍による世界の死者数は日本時間の2021年1月16日午前、200万人を超えた。日本の死者も15日現在で4433人。戦争や巨大災害を除けば、世界の人々がこれほど身近に「死」の影を意識する出来事はなかったように思う。

   僧侶として医師として、人の「生と死」を見つめ続けてきた「僧医」の対本宗訓(つしもと・そうくん)さんに話をうかがった。

  •                                 (マンガ:山井教雄)
                                    (マンガ:山井教雄)
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世俗への執着と解脱への希求に裂かれ

   対本さんの経歴を知れば、驚く人が多いだろう。愛媛県のお寺の子に生まれた対本さんは、京都大学文学部哲学科でユング心理学などを学んだ。

   卒業後は寺を嗣ぐつもりはあまりなかった。僧侶としての父を尊敬していても、時代遅れとも映る宗門の習わしや、お檀家さん相手の気苦労を見聞きしてきたので、一時はジャーナリズムの道に進みたいと考えていた。

   ところが、宗門から、2年ほど道場で修行経験を積み、大学院で仏教や禅の研究を続けて将来は学僧として立つよう、強く勧められた。周囲の勧めではあったが、自分の中にも禅の修行に「郷愁」のような親しさを覚え、長年考え続けてきた「生と死」の問題に決着をつけたい、という思いがあったことに気づいた。

   世俗への執着と、解脱への希求に裂かれて煩悶を続けた末、1979年10月、雲水姿で京都嵯峨野にある天龍僧堂の山門を潜った。

   僧堂の志願者は最初の5日間から1週間に及ぶ入門試練を経なければ仲間入りできない。これはまず、玄関の上がり框で低頭し、不動の姿勢で入門を懇願する「庭詰(にわづめ)」から始まる。これに耐え抜けば、今度は一室に閉じ込められ、終日壁に向かって坐禅をする。部屋の戸障子は取り払われ、常に人目にさらされる。脚が痛くて動けば罵声が飛び、時には外へ引きずり出される。この「旦過詰(たんがづめ)」が3~5日間続く。

   こうしてようやく入門を許された対本さんだったが、道場に入れば道友と励まし合い、「お釈迦さんでさえ6年かかった修行だ。凡人が3年でいいわけがない」と思いなし、修行に打ち込む日々が続いた。

   臨済宗の道場では、禅修行の指導者である師家(しけ)は、禅の修行をする雲水を叱咤激励して指針を与える。その際に使われる禅問答のテーマ「公案」は、数百から1千7百ほどもあるといわれ、その全課題を終了するには15~20年もかかるといわれる。

   対本さんは僧堂在籍7、8年のころから盛んに海外に派遣されるようになり、毎年のようにドイツなど欧米に渡り、坐禅指導をするようになった。だが在籍10年で転機が訪れる。早めに僧堂を出て実社会の荒波に揉まれることを是とする天龍寺の寺風から、どこかに寄宿逗留しつつ、毎月1週間は参禅修行のために僧堂に通うよう言われた。生まれたお寺は病弱の父が引退して他の住職が就任していたため、帰る場所ではなかった。

   そこで対本さんは東京・谷中にある臨済宗国泰寺派の名刹・全生庵に「客僧」として入り、そこから毎月1週間は天龍寺に参禅に向かう生活が始まった。客僧とは、住職の下で実地の修行を兼ねた下積みをする「職員僧」ともいうべき存在だ。

   対本さんの場合、朝5時の暁鐘と共に朝課に入り、朝の坐禅会に来る人々を受け入れる。対本さんは読経後には廊下を雑巾がけし、8時前には本堂に戻って坐禅をし、その後は禅院の6か所にある「東司(とうす)」と呼ばれるトイレの掃除に取りかかる。

   禅修行では「一に作務(さむ、肉体労働)、二に看経(かんきん、読経)、三に坐禅」と言われるように、掃除、とりわけお手洗いの掃除を重んじる。浄穢(じょうえ)の念、つまり、「きれい・きたない」という観念にとらわれる心を取り払う修行でもあるからだ。

   僧堂で10年修行をしても、住職の座につかない限りは小僧扱いの実地修行の身になるのだが、毎朝16個の便器を磨くことが苦痛だったのではない。とうに住職に納まっていてもおかしくない年格好で、よその寺に寄宿して便器を磨く自分をことさらに意識することが、苦しかった。そんなときは老僧の方丈様がこう励ましてくれた。

「あんたも今はただコツコツと下積みをするがいい。土台が堅固なら将来必ず大きな家が建つ」
「決して焦ることはない。『十目の見るところ、十指の指さすところ』で、必ず天下が評価してくれるから」

deathでなくdyingの死

   方丈様の言葉通り、対本さんは1993年9月、38歳の最年少管長として広島県の大本山佛通寺に入山する。「管長」の職がどれほどのものか、少し説明が必要だろう。

   日本の禅宗には、臨済宗のほかに道元禅師が伝えた曹洞宗、明の帰化僧・隠元禅師が開いた黄檗(おうばく)宗がある。曹洞宗は越前福井の永平寺、鶴見の総持寺を両本山とし、黄檗宗は宇治の萬福寺を本山とする。

   これに対し臨済宗は14派に分かれる。それぞれに本山があって末寺を抱え、14派を束ねる総本山はない。もちろん大小の区別はあるが、管長はそれぞれの宗門の最高位であり、一派を統合する宗教的権威である。つまり、普通なら風雪数十年の山坂を超えてきた老和尚がなる職に、いまだ「青年」の面影を残す対本さんが抜擢された。

   佛通寺管長といえば、戦前は広島県知事、呉の帝国海軍鎮守府長官と並び、県下ただ3人の勅任官待遇を受けたという職だ。対本さんは、入山して長老から、「昔から佛通寺管長は、『生き仏様』として尊崇される身。それにふさわしい行動をしていただきたい」と進言され、驚いたという。

   だが入寺式、開山忌、年末年始行事、末寺歴訪、法話、僧堂の指導などに明け暮れるうちに、「衆生本来仏なり」という仏教の教えに立てば、だれもが「生き仏」ではないか、と達観し、傍がどう見ようとも、自分は本来の生き方を貫くしかない、と思いなすようになった。権威となることのしがらみから、身も心も、ふりほどいたということだろう。

   こうして97年秋には、佛通寺開創六百年記念大法要という半世紀に一度のイベントを無事乗り切り、新しい禅道場と研修会館も建立することができた。

   だがこの山場を越えてから、対本さんは、管長在職二期目に掲げるビジョンを模索し、基本的な修行の世界を踏まえつつ、何をもって社会に役立って行けるかに思いを巡らすようになった。

   このころ対本さん自身にとって、最大のテーマは生と死、宗教と医療の問題に絞られつつあった。

   そのテーマに行きつくきっかけは、僧堂での修行時代から始まり、全生庵での客僧生活でも続いた父親の看取りにあった。対本さんが師父と呼ぶように、父は生老病死を究める僧侶の先達であり、死に向かう自身の姿によって、後進に「死」の本質を示す存在でもあった。

   道場通いの隙を縫って郷里の病院に父を見舞ううちに、対本さんは「死」が点ではなく、プロセスであることを知る。

   僧侶は檀家さんが亡くなると枕経に赴く。以前は目の前のご遺体を「死」そのものと勘違いしていた。ご遺体の前では誰しも、恐怖感や不気味さを感じる。死は忌避すべきもの、禍々しいもの、できれば目を背けたいものだ。

   だが、死に行く父親が見せたものは、肉体から徐々に解き放たれ、幼子のように無邪気でいきいきと目を輝かせ、次の世界に入ろうとする穏やかで調和に満ちた臨死のメッセージだった。亡骸に死をみるべきではない。臨死の姿は見送られる者から見送る者に渡されるギフト(贈り物)なのだ。こうして、対本さんは、「deathの死ではなく、dyingの死を見よう」という決意を固めるに至る。

   dyingというプロセスは、肉体の死のはるか前に、闘病生活から準備が始まっている。しかもそれは「自分」にとっての死だけではなく、家族や知人など多くの人がかかわる複合的なプロセスでもある。その密度は、末期に近づくにつれ強まる。そのプロセスはたぶん、肉体の死では終わらない。遺族にとっては悲嘆の癒しの期間も続くからだ。

管長から医学生に

   父親は対本さんに、死の現実を経験させてくれた。一個の人格が後に遺す最大の教えの一つはその死を通して伝えられる何か、ではないか。それが、「生と死」を今後究めるべきテーマに押し上げたきっかけだった。

   管長として医療関係者に講演を頼まれる機会も増え、臨終間際の患者さんに呼ばれることもあった。だが、病院では法衣をまとうことは許されず、作務衣姿で一般客としていかねばならなかった。

   死とは何か。人生の意味とは何か。なぜいま自分が死ななくてはいけないのか。死の恐怖にどう立ち向かっていけばいいのか。

   病床にある患者さんの実存的な苦悩や問いかけに、医師も看護師も応えてはくれない。だが僧侶は、僧侶として、生きている患者さんの枕頭でその声に耳を傾けることもできない。「生」は医療の世界に、「死」は僧侶の世界に分けられ、プロセスとしての「死」を通して見守り、寄り添う人はいない。本当は誰もが聞きたい問いなのに、「生」をつかさどる医療従事者も、「死」をつかさどる僧侶も、その問いには応えていないのではないか。

   そこまで考えたとき、対本さんは、宗教が提示する「いのち」と生命科学が提示する「生命」はほんらい「身心一如」であり「心身相関」であるのなら、僧侶もまた、そのことを現場で生きた働きに変える智恵と技術が必要なのではないか、と思った。つまり、宗教と医療の橋渡しとなる、という決意だ。

   そのためには、医学部に入り直して一から学ばねばならない。自分が今、始めるしかない。もし宗門の最高位にある自分が捨て身で始めれば、それは青年僧にも何らかのメッセージになってくれるのではないか。

   大型書店で参考書を買いそろえ、大手予備校の衛星放送の授業を契約して受験勉強を始めた。期間は最長2年。管長としての日常の仕事に穴をあけず、仕事と受験以外は一切捨て去る。そうした誓約を自分に課したうえで得意科目に沿った帝京大学医学部に志望を絞り、合格した。

   だが喜びもつかの間、高い入学金や初年度の納付金の振り込み期日が迫った。数日窮したあげく、対本さんはかつての師である和尚を京都に訪ね、恐る恐る用件を切り出した、和尚は「それは尊い」と言って即座に支援を引き受けてくれた。

   医学部に入学したものの、管長を続けながら6年間も医学を学ぶのは、やはり至難だった。平日は講義を受けて土日は寺に戻り、夏休みなど長期の休暇は管長の仕事に専念する計画で半年を乗り切ったが、宗門の意向も無視することはできず、11月上旬に公式に管長を辞任し、春秋7年を過ごした佛通寺を後にした。

   医師になるまでの経緯は対本さんの著書「禅僧が医師をめざす理由」(春秋社)に詳しい。

   20年以上を宗教者として生き、宗門の最高位を極めた対本さんは、こうして一医学生となり、「僧医」の道を歩み始めた。45歳だった。

コロナ禍における病院経営

   ここまで長々と対本さんの経歴をたどってきたのは、「僧医」という特異な立場に至る経過を抜きに、対本さんの死生観を理解していただくことは難しいと考えたからだ。医師は生命と健康を守る立場から人の生と死にかかわり、僧侶もまた、「生老病死」に寄り添う形で生と死にかかわる。だが、「僧医」という立場でその死生観はどう変わり、昨年来のコロナ禍で、その見方に変化は生じたのだろうか。そのことを尋ねようと1月16日、秋田県大館市におられる対本さんにZOOMでお話をうかがった。

   対本さんの肩書は現在、医療法人健永会大館記念病院理事長・院長である。対本さんは06年に帝京大医学部を卒業後、2010年から東京財団研究員としてロンドンに赴き統合医療の臨床研究。3年後にロンドン大大学院で修士課程(医療人類学)を終了し、都内でクリニックを開いた後、5年前に大館に招かれた。

   愛媛生まれで京都で修行し、東京で医学を学んだ対本さんは、東北には縁がなかった。知人から、傾きかけた大館の病院経営を立て直してほしいといわれたのがきっかけで、ご自分でも驚くほどの転身となった。

「坊さんの世界は裏表を知り尽くしているが、病院経営は全くの素人。とても無理とお断りしたのですが、3月のお彼岸前後、『見学だけでもしてほしい』と言われ、出かけました」

   院内を見回り、ふと掲示板に目をやると、職員向けの張り出しに「午後1時より職員全体集会。新院長先生ご挨拶」と書かれていた。

「『とにかく断らないで』と懇願され、私も坊さんの発想だから、『これもご縁か』と引き受けることにしました」

   これもあとで触れるが、対本さんにとって「縁」は、仏門で学んだ最も重要な考えの基本だ。

   実際に赴任してみると、惨状は予想をはるかに超えていた。病院は医者が足りず、全国いたるところから非常勤医師を呼び寄せてローテーションを組んでいた。たとえば九州の果てから来た医師は飛行機を2度乗り換え、たった1泊2日か2泊3日で勤務して帰る。旅費やホテルの宿泊費もばかにならない。経理は火の車で、金融機関の信用もなく、新たな医療機器を導入するリースも組めない状態だった。職員への給与もぎりぎりで、支給日は出勤前に口座に給与が振り込まれているかどうかを確かめる職員すらいた。

結果はV字回復

   対本さんが見てきた堕落した組織には二別ある。一つはトップが下を締め上げ、自分は楽をするタイプ。もう一つは上も下も羽根を伸ばし、放漫体質でいずれは破綻するタイプ。赴任した病院はまさに後者の典型だった。自称理事や役員が入れ替わり立ち代わりして、経営責任の所在もはっきりしない。職員は不信感と疑心暗鬼にとらわれ、組織としてはガバナンスも規律もないに等しかった。

   秋田県北にある大館市は「陸の孤島」と呼ぶ人もいるほど、交通が不便だ。東京から東北新幹線で県央の秋田市まで来ても、そこからローカル線で2時間。新幹線で盛岡まで行き、高速バスに乗り換えても同じくらい時間がかかる。大館能代空港からは車で30分だが、羽田便のみで便数も少なく、コロナ禍が広がってさらに1日1往復に減便した。

   こうした事情から、総合病院でも手に負えない超急性期治療が必要な場合は、秋田ではなく弘前大医学部病院にドクター・ヘリなどで搬送することが多いという。

   病床数98床の大館記念病院は、地域の基幹である443床の大館市立総合病院に次ぐ規模だ。もし閉鎖になれば、地域医療に大きな穴が開くのは必至だ。しかし、私立の民間病院である以上、公からの支援はあてにできない。

   僧堂で修行した対本さんは自他ともに厳しい。有能な職員を引き揚げ、権限を持たせた。

「私は医療も患者も守る。皆さんの生活も守る」

   そう言って、無駄を省き、徹底的に経営の合理化と透明化に努めた。病院が閉鎖されれば、職を失った職員は地元に転職先もない。職員も必死でついてきてくれた。結果はV字回復。地域や金融機関の信用も回復して、病院経営を軌道に乗せた。

   「私は45歳で医学部に入ったので、臨床医師としての力量が人よりあるわけでは必ずしもない。でも、宗門で組織を束ねた経験が役に立った。あいだに立って私を院長に誘ってくださった方も、再建を託した理由はそこにあった、と後で話してくれました」

   対本さんは長年、「臨床僧」の活動を提唱してきた。医師にならずとも、僧侶がホームヘルパーやケアワーカーの資格を取って医療現場でボランティアをする活動のことだ。「臨床僧」の活動は、それぞれの根拠地で、その思いを実現すればいいという立場から、組織だった動きには加わっていない。だが、大館記念病院では地元の僧に呼びかけ、有志が交代で外来ラウンジの円卓に作務衣姿で坐り、茶を飲みながら受診患者さんと歓談をするという「茶話会」の試みも続けてきた。コロナ禍で、一時中断して再開のタイミングを待っているが、今後も「宗教」と「医療」をつなぐチャレンジは続けたい、と思っている。

古くからあった「僧医」という言葉

   「僧医」について対本さんは、ご自分のブログで、「身体を診る医師の目と、心や魂を観る僧の目を兼ね備えた存在です」と書いている。だが臨床の場で、その二つの立場が対立したり、矛盾したりすることはないのだろうか。そううかがうと、対本さんの答えは明快だった。

   「僧医」という言葉は対本さんが新たな意味を与えたが、もともと日本にある言葉だったという。

   かつて仏教が朝鮮半島経由で伝来した際、多くの僧たちの手で大陸の医学や薬学が伝えられた。渡来僧の中には薬草の知識などを駆使して治療をした人々もおり、それがのちに「僧医」の名で呼ばれるようになった。宗教も医学も未分化な時代だったので、加持祈祷の要素もあったろう、と対本さんは言う。

   対本さんは、未分化だった宗教と医療を現代に再現するというのではなく、「心と命のつながりを見失った今という時代に、より高い次元で再び統合させたい」と考えた。それが、現代における「僧医」の目指す理念だ。

   このため、医学部を卒業した後、対本さんは渡英して補完代替医療の臨床を学んだ。これは漢方の元となった中国伝統医学だけでなく、インドの伝統医学であるアーユル・ヴェーダや、西洋発祥のホメオパシー、アロマセラピー、ハーブセラピー、リフレクソロジーなど多岐にわたる。あくまで現代医学を基本としながら、その弱点や弊害を補い、効果が期待できない時や、生活の質を維持するために、できるだけ多くの選択肢を準備して、その人に合った一番適切な方法を選択するという「統合医学」や、「ホリスティック医学」の考え方である。イギリスではアレルギー治療、ガン治療、慢性疾患、生活習慣病など、様々な分野で補完治療が取り入れられており、対本さんは各国から派遣された医師らと共に、様々なプログラムに参加し。臨床研究をした。

   だが、臨床現場で内科医の対本さんは、あくまで「エビデンスに基づく現代西洋医学」を基本として患者さんを診る。そこに迷いはないという。

「救命救急や集中治療、検査診断技術など、西洋医学の最先端分野は補完代替医療では太刀打ちできません。その有効なところは認めています」

西洋医学中心で「僧」をどう活かす

   実際に病院では、抗菌・抗ウイルス薬を使い、標準医療で対処しているし、今後ワクチン接種が始まれば、対本さん自身も率先して受けるつもりだという。では、「僧医」の「僧」の部分は、日常的にどこで活かされているのだろう。対本さんは、こう答えた。

「それは、縁ということだろうと思います」

   因果律は原因と結果の法則だ。物事にはすべて原因があり、結果がある。近代の科学は実験を繰り返すことで因果関係を証明し、科学を発展させてきた。想定したAという原因の有無で、結果Bになるかどうかを調べれば、AとBは因果関係で説明できる。もちろん他の要因が結果に影響を与える可能性もあるので、他の条件はすべて同じになるよう操作して、厳密に同一環境のもとでAの有無が結果を作用するかどうかをテストする。それが同一条件の下で、他の科学者によって再現可能であれば、科学的に因果律が証明された、とみなす。もちろん科学の進歩によって、その因果律が全体のごくわずかしか説明できていなかったり、間違いだった、とわかったりする、ということもある。その意味ではあくまで、ある時代の仮説に過ぎないが、その時代の水準においては説得力のある説明だろう。

   仏教も因果律を説く。だが対本さんによれば、お釈迦様が説いた因果律の特徴は、原因と結果の間に「縁」を入れることだという。日常会話で「ご縁があったら」とか、「良縁に恵まれて」といった風に使う「縁」のことだ。これは本来、間接的な原因、もしくは条件、環境を指す。

   例えば畑に種を蒔く。この種は原因で、種を蒔かなければ花も咲かず、実も結ばない。だが、種を蒔いたからといって、つねに花が咲き、実を結ぶわけではない。適度な水分がなければ発芽しない。太陽の光や温度など、様々な条件が重なって初めて種は発芽し、成長して花が咲き、実を結ぶ。あるいは順調に育っても、鳥が種をついばんだり、人が花を折ったりすれば、そこで命運は尽きる。仏教でいう「縁」とは、原因が結果に結びつくまでの、こうした様々な条件や環境を指すのだという。どんなに努力しても結果が実を結ばないことはいくらでもある。それには時期が熟したり、人との機縁が働いたりといった条件が整わなければならない。

   ここから仏教は「業(ごう)」あるいはカルマを説く。これも対本さんによれば、取り立てて神秘的なものではなく、「行い」の因果律を指す。いい種を蒔けばいい果実を結び、悪い種を蒔けば悪い作物ができる。これが「因果応報」であり、「自業自得」だ。もちろん、あくどいことをして栄耀栄華を楽しむ人もいれば、正直者がバカを見ることもある。だが、そこで世間を嘆くだけでは、もったいないし、先もなく後もない。

   お釈迦様やイエス様と同じ程度にまで心を深めないと物事の背後や内奥にあるつながりや関係は見えてこない。心を深くするほど責任はすべて自分に帰することがわかり、今まで無駄に思えたことが、何一つ無駄ではなかったことがわかってくる。

   仏教では業を三つに分ける。「身口意(しんくい)の三業(さんごう)」である。

   身体でつくる業は行動、口を通しての行いは言語的行為で、これはわかりやすい。暴力を加えれば傷害罪で逮捕され、公衆の面前で根もなくだれかを誹謗中傷すれば名誉棄損で訴えられる。

   だが「心」でつくる行いとは、わかりにくい。心で思うことは外に表現しておらず、どれほど反社会的で、公序良俗に反することを思っても、それは処罰されず、責められもしない。お釈迦様もイエス様も一様に語っているのは、だからこそ、心の中の想念は身体や口での行いと同じくらいリアリティがあり、よくよく注意せよ、ということだった。対本さんはそう指摘する。

   体の行いも、口の言葉も、表現される以前には必ず、想念やイメージとして心の中に存在する。裏を返せば、心の中にないものは、外に現れ出ることもない。だから心の思い、「心業(しんごう)」は、あらゆる行為の原因として最も重要とみなされる。

   だが、どうしたらその「心」をコントロールできるのか。心はどこにあるかもわからず、往々にして、理性や意識を裏切り、頭で考えたり指示したりすることと逆の行動をとらせることもある天邪鬼だ。

   それは人間の意識の下には広く深く、無意識の層があるからだ。これが仏教でいう「唯識」である。奈良の南都六宗のうち法相宗が樹立したこの考えは、眼・耳・鼻・舌・身という五つの感覚器官に意識、末那識(まなしき)、阿頼耶識(あらやしき)という三つの識を加え、全体で八識を立てる。末那識と阿頼耶識が、今でいう無意識にあたる。

   では、そうした無意識を抱える心をコントロールすることはできないのか。

   その方法が呼吸を整えること、すなわち「坐禅」である、と対本さんはいう。呼吸と心はつながっており、呼吸を整えれば、心を整えることもできる。それが「坐禅」の修行であり、神髄でもある、と対本さんはいう。

コロナと禅

   対本さんは今も朝5時からの1時間を坐禅に充てている。同じ時間帯には日本にいる弟子たち、英国にいる仲間も瞑想に入り、時空を超えて心を交流させる。

   コロナ禍における病院経営は多難だ。感染が急速に広がる首都圏に比べればまだ平穏だが、どう院内感染を防ぎ、高齢患者を守るかに心を砕く毎日だ。外から来るドクターにはPCR検査を受けてもらい、医療従事者やその家族には、感染症流行地域との往来の自粛など、リスクの高い行動を控えるよう注意喚起している。示しをつけるため、対本さん自身、一歩も大館から離れていない。

   次々に起きる目先の出来事に追われ、対処に迷う中で、責任者として的確な決断を下すしかない。そういう場面でこそ、坐禅で培った「平常心」が役に立つのかもしれない、と対本さんは思う。

「臨床はエビデンスに基づく医療です。だが、そのエビデンスにどこまで信頼を置けるか、わからないこともある。何年にもわたって観察してきたウイルスと違って、新型コロナの挙動は分かっていないことも多く、薬が効くかどうかも不明だ。きわめて短い時間の間に刻々と状況が変化していく場合には、情報に振り回されず、状況を冷静に見つめることが大切だと思います。全てのものは変化し、片時も停まることがない。院長としてすべての責任を引き受けねばならないため、ベストの選択として自分が選び取っていくしかない」

   対本さんは2011年、臨済宗妙心寺管長(当時)の河野太通師と対談本「闘う仏教現代宗教論」(春秋社)を刊行した。その中で対本さんは、人体に備わっている免疫の働きについて、次のように語った。仏教には自分と他者が一つであるという「自他不二」の悟りがあるが、免疫はそれとは反するのではないか、という指摘である。

「いのち、生命体ということですが、これは決して自他不二というわけではないんですね。免疫の働きと言われますけれど、免疫というのは他を排除する仕組みで成り立っています。自分と自分でないものとを厳密に区別する。仏教でいうような自他不二ではなくて、自分と自分でないものを厳格に区別して、自分でないものを排除する。それをやらないと、生命体というのは成立しない、成り立たないわけです。たとえば病原菌が入って来て、自他不二ですよということで寛容にしていると、一遍に命を取られてしまう」

   これは人間には何億年の歴史の原初から、他をやっつけるとか、俺とお前は違うんだという仕組みで成り立っているのでは、という問いかけだった。

   これに対し、河野師は、こう答えた。

「他を排除するということは、その『他』もこちらを排除するということでしょう。ですから、お互いに排除するというところで、自他不二ではないですか。なんでも仲良くするというのが自他不二ではなくて、それぞれの個性、性質というものを認めていくことが、自他不二ということになるんではないですか」

   「ウイルスの撲滅」とか、「ウイルスとの共生」が語られる昨今、対本さんはこの問題を今どう考えるのか、尋ねてみた。

「私は共生を望むが、人間同士でも現実に共生は難しい。まして目に見えず、対話にも応じてくれないウイルスと共生することは、もっと困難でしょう。しかし、ウイルスや細菌が全くいない状況を作るのが困難であれば、つまり原因を根絶できないとしても、私たちは『縁』をコントロールすることはできる」

   この場合、「縁」のコントロールとは、接触を防ぎ、防護服やマスクでウイルスの侵入を極力防ぎ、抵抗力や免疫力を高めることだ。当たり前のことのように思えるが、対処手段は他の医師と同じでも、「僧医」の見立てや位置づけは、ずいぶん違うと感じた。

「周死期学」の提唱

   もう一つ対本さんが指摘するのは、今回のコロナ禍ほど、これだけ広範囲に、長期にわたって、死の影がちらつくことは、戦後の日本にはなかった、ということだ。だれもが家族や知人、あるいは有名人の感染や死を通して、「生と死」の問題を意識せざるを得ない状況になった。それは、異常な混沌ではあるが、誰もが普段は目を背け、だがいずれは必ず迎えねばならない死と、それに向かっていく生の在り方を顧みる機会にもなるかもしれない。

「だれもが年を取って、死んでいく。その生老病死に寄り添うことが仏教の務めです。医師としては患者さんの健康回復に全力を尽くし、もし万が一亡くなれば、心からお悔やみを申し上げて、死後も続く患者さんの魂に寄り添っていく。それが『僧医』の務めだと思っています」

   対本さんは近年、「周死期学」を提唱してきた。妊娠後期から出生後1週間未満を「周産期」と呼び、医学では様々な知見や研究が積み重ねられてきた。だが、死にゆく過程で何が起こっているのか、旅立ちの仕組みとは何か、人は死んでどうなるのかなど、患者さんが本音のところで知りたいこと、私たちが心の奥底で知りたいことについて、科学の方法論にはなじまないこともあって、医療はほとんど答えを与えてくれない。この死のプロセスを「周死期学」と呼んで、臨床レベルで医師、心理士、宗教家などが知見や知恵を持ち寄り、積み上げよう、という呼びかけだ。対本さんのブログには次のような説明がある。

   死は瞬間ではありません。何時何分という時間的な一点で生と死を区切るのは社会の約束ごとにしかすぎません。長短の差はあれ、実際のところ死は一連の経過の中で訪れます。死ということを考えるならば、deathではなくdyingの死、つまりそのプロセスを問題にしなければなりません。「周死期学」は経験としてのさまざまな事実の積み重ねです。冷厳な科学的証明を駆使することも必要になるかもしれませんが、むしろ私は死にゆく人々やご家族の声に謙虚に耳を傾け、その視線と愛する者の思いを何よりも大切にしたいと考えています。したがってその方法論は「周死期のエスノグラフィー」と言えるかもしれません。

   ここで改めて書くまでもないが、対本さんが「周死期学」を唱えるのは、死を意識する人の疑問に答え、心残りや不安、恐怖を和らげるためばかりではない。いつか死に行くことが人の宿命だとしたら、どう生きていくのか。その生き方を問いかけ、自らが選び取っていく知恵の集積なのだと思う。

   コロナ禍が突き付ける「死」の影は不吉であり不穏だが、せめてそこから、どう生きるのかを考えるきっかけを見出すようにしたい。対本さんにお話を伺って、そう思った。

ジャーナリスト 外岡秀俊




●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。

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