「周死期学」の提唱
もう一つ対本さんが指摘するのは、今回のコロナ禍ほど、これだけ広範囲に、長期にわたって、死の影がちらつくことは、戦後の日本にはなかった、ということだ。だれもが家族や知人、あるいは有名人の感染や死を通して、「生と死」の問題を意識せざるを得ない状況になった。それは、異常な混沌ではあるが、誰もが普段は目を背け、だがいずれは必ず迎えねばならない死と、それに向かっていく生の在り方を顧みる機会にもなるかもしれない。
「だれもが年を取って、死んでいく。その生老病死に寄り添うことが仏教の務めです。医師としては患者さんの健康回復に全力を尽くし、もし万が一亡くなれば、心からお悔やみを申し上げて、死後も続く患者さんの魂に寄り添っていく。それが『僧医』の務めだと思っています」
対本さんは近年、「周死期学」を提唱してきた。妊娠後期から出生後1週間未満を「周産期」と呼び、医学では様々な知見や研究が積み重ねられてきた。だが、死にゆく過程で何が起こっているのか、旅立ちの仕組みとは何か、人は死んでどうなるのかなど、患者さんが本音のところで知りたいこと、私たちが心の奥底で知りたいことについて、科学の方法論にはなじまないこともあって、医療はほとんど答えを与えてくれない。この死のプロセスを「周死期学」と呼んで、臨床レベルで医師、心理士、宗教家などが知見や知恵を持ち寄り、積み上げよう、という呼びかけだ。対本さんのブログには次のような説明がある。
死は瞬間ではありません。何時何分という時間的な一点で生と死を区切るのは社会の約束ごとにしかすぎません。長短の差はあれ、実際のところ死は一連の経過の中で訪れます。死ということを考えるならば、deathではなくdyingの死、つまりそのプロセスを問題にしなければなりません。「周死期学」は経験としてのさまざまな事実の積み重ねです。冷厳な科学的証明を駆使することも必要になるかもしれませんが、むしろ私は死にゆく人々やご家族の声に謙虚に耳を傾け、その視線と愛する者の思いを何よりも大切にしたいと考えています。したがってその方法論は「周死期のエスノグラフィー」と言えるかもしれません。
ここで改めて書くまでもないが、対本さんが「周死期学」を唱えるのは、死を意識する人の疑問に答え、心残りや不安、恐怖を和らげるためばかりではない。いつか死に行くことが人の宿命だとしたら、どう生きていくのか。その生き方を問いかけ、自らが選び取っていく知恵の集積なのだと思う。
コロナ禍が突き付ける「死」の影は不吉であり不穏だが、せめてそこから、どう生きるのかを考えるきっかけを見出すようにしたい。対本さんにお話を伺って、そう思った。
ジャーナリスト 外岡秀俊
●外岡秀俊プロフィール
そとおか・ひでとし ジャーナリスト、北大公共政策大学院(HOPS)公共政策学研究センター上席研究員
1953年生まれ。東京大学法学部在学中に石川啄木をテーマにした『北帰行』(河出書房新社)で文藝賞を受賞。77年、朝日新聞社に入社、ニューヨーク特派員、編集委員、ヨーロッパ総局長などを経て、東京本社編集局長。同社を退職後は震災報道と沖縄報道を主な守備範囲として取材・執筆活動を展開。『地震と社会』『アジアへ』『傍観者からの手紙』(ともにみすず書房)『3・11複合被災』(岩波新書)、『震災と原発 国家の過ち』(朝日新書)などのジャーナリストとしての著書のほかに、中原清一郎のペンネームで小説『カノン』『人の昏れ方』(ともに河出書房新社)なども発表している。